「「不注意にも深い嘆息」 - 藤原智美」ベスト・エッセイ2007

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「「不注意にも深い嘆息」 - 藤原智美」ベスト・エッセイ2007

オオサンショウウオを無性に見たくなる。ちょっとした発作のようなもので、ごくたまにその奇妙な欲望がわき起こる。先日も雨の中を上野動物園に出かけた。引き金になったのはあるニュースだった。
警察に捕獲されたオオサンショウウオを、男が引き取りにきた。彼は中国産だと思っていたと主張した。日本産なら特別天然記念物であり、ペットとして飼うことはできない。ほどなくDNA鑑定で日本産と判明した。くわしい事情はわかない。が、男はいてもたってもいられず、「ヤバイ!」とわかっていても、そいつを取り返しに出かけたのだ、とぼくは推測する。
上野動物園の両生類館には四匹が飼育されている。大きいのは一メートルはありそうだ。たいていは朽ちた丸太のように水底に沈んでいて身動きしないのだが、その日は、虫の居所が悪いのか、大きな一匹が仲間を踏みつけながらもそもそと動きまわっていた。下でじっとがまんしているほうは、前足の一本を水中に浮かせたおかしな姿勢で固まっている。そのなんともアンバランスに小さい指が、水の流れのせいか、あるいは虐げられた怒りなのか、プルプルと震えつづけていた。
ときどき、水槽のまえに親子連れがやってくる。けれど幼い子どもたちは、その緩慢な動きと地味な装いたにたちまち興味を失い、すぐに離れていく。子どもたちはその風変わりな面白さを、理解できないのだろう。
オオサンショウウオの図体は両生類のなかで最大である。巷[ちまた]では一〇〇年は生きるともいわれている。二つに引き裂いても再生するという俗説もある。けれど何より、人を引きつけるのがその形である。オオサンショウウオは同じ両生類である蛙のように、変態することがないのだ。尻尾は残る。幼体を保ったまま大きくなる幼形成熟という珍しい成長過程をたどる。体長一メートルになってもまだ、卵から誕生したばかりの形と変らず、その姿は初期の胎児とも相似している。かつてこのぼくも、あのような形でうごめいていたのか。
そんなグロテスクな図体だが、憎めないのはきっと井伏鱒二山椒魚』の影響だろう。岩屋にもぐりこんだまま成長し、体が大きくなってそこから出られなくなってしまったドジなオオサンショウウオの話だ。そいつは「ああ寒いほど独りぼっちだ!」と嘆きすすり泣く。そこへ飛びこんできたのが一匹の蛙だった。オオサンショウウオは蛙を食べてしまうわけでもなく、岩屋に閉じ込めてただただ口論をくり返す。そしてときどき外を見やり、蛙に悟られぬように隠れてため息をつく......。

井伏鱒二が『幽閉』(のちに改名)という名でこの作品を発表したのが一九二三年、今から八〇年以上まえのことだ。亀井勝一郎新潮文庫の解説で、この作品にこめられているのは「畏怖であり、自虐であり、悔恨であり、狼狽であり、また傲慢でもあったろう」と書いている。そこには、人間のもつ負の感情がほとんどすべて詰まっている。けれど最後に、蛙から「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」と許しを受けることで、読み手の心は一気に突き動かされる。畏怖、自虐、悔恨、狼狽、傲慢な存在として描かれるオオサンショウウオとは、まさにぼくら自身のことなのだ。
たしかにオオサンショウウオは、身の奥深い一角にひとつの情感をかかえているようにみえる。そいつと対面したとき、いったい何を考えているのか、問いかけたくなるという人は少なくないはずだ。何か重大で深遠な思想を秘めているのではないかと思わせるような、超然とした風格と雰囲気が備わっている。
上野のオオサンショウウオと対面してからしばらくして、おかしな噂話を耳にした。
横浜のみなとみらいに係留されている日本丸という船にまつわることだ。一九三〇年に竣工した二二七八トンという大型帆船である。主に太平洋を訓練航海で半世紀にわたり往来し、役目を終えたのが一九八四年。その後、横浜で一般公開されている。けれど、隣の山下公園にある氷川丸のように形だけ残しているわけではない。氷川丸の土台はコンクリートで固められているが、日本丸は今でも外洋を航海することも可能だ。風の強い日などは、船体がゆっくりと揺れることもある。氷川丸は「死んで」いるのだが、日本丸はまだ「生きて」いるのだ。
現在のところに係留されるようになってから四年後、港を横断する巨大な橋が完成した。横浜ベイブリッジだ。横浜の新名所である。ところが、日本丸にとっては迷惑この上ない存在となった。メインマストが高すぎて、ベイブリッジの橋桁をくぐれないというのだ。それではまるで、この国の名を冠とした船が岩屋の山椒魚だということではないか。
気になって調べてみた。橋桁とメインマストの間は、計算上は余裕があり、かろうじてくぐれることになる。なんだかホッとした。日本丸は閉じこめられているわけではなかった。もしそうだったら、ほんとうに哀れなことになる。
ぼくがオオサンショウウオにたいして感じているシンパシーのようなものの正体は、この哀れさにあるのだろうか?それとも幼形という生命の核のようなものが、皮をかぶらないまま現前に生きているという不可解さに魅せられるのか?来年も上野に足をむけてしまいそうで、岩屋に潜む彼のごとく、ぼくもついためいきをもらす。