2/2「第五段階/受容(抜書) - E・キューブラー・ロス、鈴木晶〔訳〕」中公文庫 死ぬ瞬間-死とその過程についてON DEATH AND DYING から

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2/2「第五段階/受容(抜書) - E・キューブラー・ロス鈴木晶〔訳〕」中公文庫 死ぬ瞬間-死とその過程についてON DEATH AND DYING から

彼女は明らかに妄想に取りつかれ、幻覚を見、誇大妄想的なことを口走った。その表情には恐怖と混迷が浮かび、スタッフに伝えることもまったく意味をなしていなかった。だがこうした精神病的な言動のなかにも、ある程度の意識と論理が見られたのは印象的であった。病室に戻されると、彼女は私に会いたいと言った。そして翌日私が部屋に入って行くと、彼女は困惑気味の夫に視線を向け、「この人に言って聞かせてやってほしい」と言った。それきり彼女は私たちに背を向け、放っておいてほしいという意思を示した。それが私とW氏との初めての対面となった。彼は言葉に窮していた。いつもあれほど気位の高いレディで通していた妻の「常軌を逸した」ふるまいがどうにも納得できなかった。急速に悪化していく妻の病状にうまく対処できず、私との「常軌を逸した会話」の内容も理解できなかった。
W氏は涙を浮かべ、妻の予想外の変貌に当惑しきっていると言った。彼らの結婚生活はあまりにも幸福にみちていたので、妻が不治の病であるなんて、とても受け入れられないのだと語った。手術をすればもう一度これまでのような幸福な結婚生活を取り戻し、「以前のように仲睦まじく」暮らせるという希望をいだいていただけに、そっけない妻の態度に戸惑い、この精神病のような言動のおかげでいっそう混乱してしまったのだった。
私は彼自身の求めていることではなく、患者の望みについて尋ねてみた。しかし彼は黙って座り込んだままだった。やがて彼も、自分の妻の望みに耳を傾けたことなどなく、当然二人とも同じ気持ちだとばかり思っていたということに少しずつ気づき始めた。死が患者に大きな安堵感をもたらすときがくるなんて考えてもみなかったし、患者が人生の中で大切にしてきた家族や友人から少しずつ離れていけるようにすれば、患者自身は安らかに逝けるなどとは夢にも思わなかったのだ。

W氏とは長いこと話し合った。話をするうちに、徐々に事情が明らかになり、焦点が定まってきた。夫人が自分の望みを伝えようとどんなことをしてきたかについて、W氏はさまざまなエピソードを話してくれた。だがそれは彼の望みとは反対のものだったので、耳を貸さなかったのだという。帰り際、W氏は明らかに安心したようで、「いっしょに病室にいきましょうか」という私の申し出を断って去っていった。病気の結末について、夫人ともっと率直に話し合えそうな気がすると言い、彼のいう夫人の「抵抗」によって手術を中止しなければならなかったことを喜んでもいた。夫人の精神病についてもこう反応した。「まったくね、たぶん家内はだれよりも強いんでしょうね。してやられましたよ。手術はいやだってことをはっきり示していたんですから。精神病が手術から逃れるための唯一の抜け道だったんでしょうね。覚悟もできていないうちに死ぬことがないように......」
数日後、W夫人は、私を逝かせてくれる気持ちが夫にあることを確かめなければ、自分は死ぬことができないときっぱり言った。彼女が夫に望むのは、自分の気持ちをいくらかでもわかってほしいということであって、「きっとよくなると気休めばかり言う」ことではないのだ。W氏は妻からその心のうちを話してもらおうとしたのだが、うまくいかず、彼は何度も「元の状態に戻って」しまった。あるときは放射線治療に希望をつないだかと思うと、あるときには専属の看護人を雇うから家に帰ろうと言った。
それからの二週間、彼は頻繁に私たちを訪れ、妻について、彼のいだく希望について語り、さらに、避けることのできない妻の死についても触れた。そしてようやく彼は、妻が衰弱しつつあり、二人の生活で大切にしてきたさまざまなことも共有できなくなるという事実を受け入れたのだった。
手術が永久に中止となり、W氏が目前に迫った夫人の死を受け入れ、その思いを夫人と共有するようになったとたん、彼女は精神病から回復した。苦痛もやわらぎ、彼女は気位の高いレディの姿に戻り、体が許すかぎり自分でできることは自分でするようになった。医療スタッフも彼女の微妙な表情にしだいに敏感になり、臨機応変に対応するようになった。そして「最後まで尊厳をもって生きたい」という彼女のいちばんね望みをつねに念頭に置くようにした。