「もったいない - 土屋賢二」文春文庫 不良妻権 から

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「もったいない - 土屋賢二」文春文庫 不良妻権 から

わたしは服装にこだわっているが、まわりからは服装に無頓着だと思われている。原因は明らかだ。まわりに見る目のある者がいない上に、わたしの魅力を引き出す服装が未開発だ。さらに、気に入った服はいざというときのために大事にとっておくからだ。
しかし最近気がついたのだが、「いざというとき」というものはいっこうに訪れない。ここ数年を振り返っても、あらたまったところへ行ったのは葬式や法事のときだけだ。「いざというとき」のためには黒い服だけで十分なのだ。黒以外の服は、流行遅れになるか、体型が合わなくなるかでいつの間にか着られなくなってしまう。かろうじてまだ身体が入る服を活用するには、ノーベル賞でも受賞して授賞式に出席するしかない。その場合でも授賞式に出るには安っぽすぎる服しかないという問題が残る。
ふだん着るのはもったいないと思っていると、気に入った服を着る機会が永久に失われてしまう。だがどんなに気に入った服をもっていても死んだら経帷子[きようかたびら]しか着ることができないのだ。今後は「もったいない」というケチくさい考えは捨て、気に入った服(といっても一着しかない)をどんどん着ようと決心するが、近所の郵便局に速達を出しに行くだけのために一張羅のスーツを着て行くのはもったいないという感はどうしてもぬぐえない。
もったいないのは服だけではない。わたしはまもなく六十九歳になる。あと生きられるのはどんなに順調でも十年ほどだ(誤差はプラス二十年、マイナス十年ほどだ)。わずか三千六百五十日だ。今後目が覚めるのはあと三千六百五十回しかないのだ(そう思えば、夜中に何度目が覚めても苦にならなくなる)。時間はそれほど貴重なのだ。だが時間ほどもったいない使い方をしているものはない。
ではもったいない使い方を避けるにはどうしたらいいのか。ここには重大な問題がひそんでいる。
たとえば、死ぬまでにとれる食事の回数は驚くほど少ないから、一回一回の食事を大切にしなくてはもったいない。だが「食事を大切にする」にはどうすればいいのだろうか。ここで、①数少ない食事だから健康は無視して好物だけを食べるべきか、②残された食事回数がこれ以上減らないよう健康食をとるべきか、という選択を迫られる。どう選んでも、もったいない結果になってしまう。
さらに、①どんなまずい料理でもよく味わって食べるべきか、②回数か限られているのだから妥協しないでできるだけおいしいものを食べるべきか、という選択にも迫られる。
万事がそうだ。あと何歩歩けるかを考えると、歩けるだけ歩いておきたくて一駅分歩こうと思うが、あと何分電車に乗れるかを考えると、歩くのをやめて電車に乗る時間を増やす方がいいようにも思える。どっちを選んでももったいないと思いつつ、結局はそのときの疲れ具合で決めることになってしまう。
テレビは、見て損をしたと思うことが多いから、見ない方がいいのか、それともテレビを見られる時間は残り少ないからコマーシャルまで一生懸命見るべきなのか。
さらに言えば、何かに全力で取り組んだ方がいいのか、それとも、のんびりする時間も残り少ないのだから、できるだけのんびりした方がいいのか。
残された時間を大切に過ごすにはどうすればいいのかを考えるほど分からなくなってくる。結局、よそ行きの服と同じように、何をしてももったいないと思いながら、残された貴重な時間を無駄にしてしまいそうな気がしてならない。