「死も遺伝的プログラムの一環 - 日高敏隆」死をめぐる50章 から

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「死も遺伝的プログラムの一環 - 日高敏隆」死をめぐる50章 から

じつはぼくは、直接に人が死ぬところに出会ったことがない。人がついに息を引き取って、ああ、死んでしまった、と感じる場面に立ち会ったことがないのである。父の場合、祖母の場合、そして友人、恩師の場合、すべてその後で死に顔に対面しただけであった。だから死というものに心うたれたことはない、というわけではもちろんない。近しき人の死はさまざまな思いを呼び起こすものであった。
自分はもう死ぬか、と思ったこともない。中学生のとき、学校で北アルプスの白馬岳へ登る班に入れてもらい、念願だった高山を存分に味わった。その帰りのことである。たぶん各駅停車であっただろう中央本線の汽車に乗って、松本から新宿へ向かっていた。戦争中のことで、車内販売などはない。汽車の中に水はない。もちろん冷房なんかもない。
汽車が岡谷の駅にとまったとき、何分間かの停車時間があると聞かされた。みんな一斉に水筒をもってホームに降り、一つしかない水道の蛇口の前に行列を作って水をくみはじめた。
発車のベルは鳴ったのだろうが、ぼくと数人は気がつかなかった。見たら汽車は動きはじめていた。そのころの汽車はドアなど閉まらない。ぼくは急いで出入口の取っ手をつかみ、飛び乗ろうとした。ところが足が滑って、走りだした汽車にぶらさがったまま、ばたばたすることになった。
そのままだったら、ぼくはやがて汽車から振り落とされ、大けがをするか死ぬかしていただろう。けれど幸いなことに、駅員が僕を抱きとめ、汽車から離してくれた。
「いくら引っ張っても、取っ手にしがみついていて離そうとしないんで困ったよ」
あとで、その駅員はこう言っていた。ぼくにはそんな憶[おぼ]えはなかったから、一瞬、気を失っていたのかもしれない。とにかくこうして、ぼくだけ取り残され、駅からの電話で連絡を受けて上諏方から戻ってきてくれた先生と、腹ぺこになって深夜、新宿に着いた。でも、そのとき、自分が死ぬとは思わなかった。
そのずっとのち、ぼくは急性胃潰瘍で大量に吐血し、同時に失神してしまった。急に体が冷えたように感じ、たちまち目の前が暗くなって、何もわからなくなった。自分に何が起こったのか、どれほどたくさんの血を吐いたのかは、意識が戻ってから知ったことであった。けれどこのときも、自分が死ぬとは思わなかったし、そう思うひまもなかった。
「死」とはどんなものかを何となくわかったような気がしたのは、その後、脛椎椎間板[けいついついかんばん]ヘルニアの手術を受けたときである。手術をしてもらえば必ず治る、とも思っていなかったし、手術をしても治らないのではないか、とも思っていなかった。とにかく手術を受けるほかないのだから、手術をしてもらう、という気持ちだけだった。
手術室へいくための車椅子に乗せられて病室を出るとき、看護婦さんが、
「手術のとき麻酔をしますけれど、その準備のための注射をしましょうね」
と言って、肩だか腕だかに注射をした。それはすぐに効いて、ぼくはたちまちにして意識がなくなった。眠いとか、朦朧とするとかいうものではない。車椅子がエレベーターに乗ったか乗らないかも知らないうちに、ぼくは意識も自意識も失った。自分も世の中もすべてなくなってしまったのである。だからぼくはこの世の中から存在しなくなった。
それからあとのことは、存在していないぼくにはまったくわからない。実際には五時間ぐらいだったらしいけれど、ぼくはもちろんそんなことは知らない。存在していないのだから、知るなどとは論外のことである。
ふと耳もとにこんな声が聞こえた。
「日高さん、手術終わりましたよ」
この声でぼくは再び世の中に存在することになった。ふつうなら「我に返った」というべきなのだろう。けれど、「我を失っていた」のではなく、存在しなくなっていたのだから、我に返るも何もない。再びぼくが現れたのだとしか言いようがなかった。
あのとき、手術の途中でもし、ぼくが死んでいたら、「手術終わりましたよ」という声を聞くこともなく、ぼくは消滅していたことになる。でも、六十年以上も生きていると、それも恐ろしいとは思えない。むしろ、死ぬとはそういうことなのか、という気持ちの方が強い。
旧制成城高等学校時代の動物学の恩師である内田昇三先生は、晩年、『私と私の生物学的宗教』という本を自費出版された。その中に「死ねば無だ」ということが繰り返し書かれている。先生は無になることを恐れていたように思えるし、一方ではそれを仕方ないこととして受けいれようと努めていたようにも思える。 
それからしばらくして、先生は無になられてしまった。ぼくは外国にいて、その瞬間には立ち会えなかった。ぼくのおそらくはいちばん敬愛していた先生の、そのときに立ち会っていたら、ぼくは何を感じただろうか?
日本バイオサナトロジー学会という学会がある。バイオは生、サナトスは死。訳せば日本生死学会となるこの学会の一会員として、ぼくは医学的にではなく、生物学的なプログラムとして「死」を見ているようだ、と自分では思っている。
人間が何一つ自分ではできない赤ん坊として生まれてから、生物学的な遺伝的プログラムに沿って大きくなっていき、大人の男か女としてさまざまな人生を歩み、また子どもをつくる。そしてあるとき、この世界から消える。それと同時に世界も消える。
「死」がこのように育つことのプログラムの一環であるならば、それはあまり大げさに受け取るべきことではないようにぼくには思われる。近しい人の死に接したときの悲しみは、また別の問題である。