「引札 - 井伏鱒二」日本の名随筆23 天野祐吉編 広告 から

 

 

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「引札 - 井伏鱒二」日本の名随筆23 天野祐吉編 広告 から

私は引札を蒐集する趣味を持つやうになつた。この点、人間五十すぎると蒐集癖が出て来るといふ説に符合する。
引札、すなはち披露の招帖である。私が子供のころ田舎では、引札のことを散紙の略で「ちらし」と云つてゐた。江戸時代の書物には配符と書いたのも見え、そのころも引札の蒐集家がゐたと記録されてゐる。いつか私は骨董屋で、蜀山人の書いたといふ蕎麦屋の引札と、鈴木春山の書いたといふ本屋の引札を見た。これが井原西鶴の書いた引札なら私は買ひたいと思つたかもしれないが、あとできくと春山筆も蜀山人筆も贋物ださうであつた。だが、私の蒐集してゐるのは古い引札ではない。骨董品ではなくつて現代の引札である。これは買ひ集めてまはる必要もなく、手を拱いてゐても自然に集まるから世話がない。
いま四十枚あまり集めてゐる。酒場の開店披露の引札、会合の案内通知、本屋の開店披露の引札、寺院の改築について寄附金の募集案内、平和運動の会合通知、出版記念会の案内、税務署からの通知、そのほかいろいろの種類がある。その文体も種々さまざまである。そのなかで個性のある磨きのかかった文章のものを挙げてみたい。

前略 乍唐突 森類はわたくしの詩歌の友で素より商人の資質ではありませんが渡世の一方便として、この度家大人鴎外先生の旧居址の一隅(本郷駒込千駄木町一九番地)に本屋を開き斎藤茂吉翁の命名で千朶木書房と申します。ささやかながら聊か理想と抱負とを持つて開店の由。その人柄の平生の志から見て今に美しいよい店になるかと存じます。何とぞ御念頭に留め置かれて団子坂上辺りをお通りがかりの節は店頭をお顧みの上、不慣れな素人商人夫婦をお教へお励まし下さるやうわたくしからも特にお願ひ申し上げます。不一な開店の御披露を店主に代つて
一九五一年新春
ー 曰す

愛情にあふれ、行文の妙を内輪に矯める程度にして、余裕のある堂々たる文章である。これは茶器を蒐集するよりも、私にとつては趣味の満足に値する蒐集品である。無論、茶器は買へないし、そんなものは買ひたくないと云ひたいから、この感傷言が吐けるのである。
この引札の筆者は、すぐれた詩を書き、すぐれた小説を書いて来た作家である。現にいまも書いてゐる。当代の代表的な作家である。慣れぬ仕事の本屋を開く人の気質や人柄にも、一と筆だが的確に触れ、それをいたはる気持が充分に見えてゐる。

次に某批評家が書いた引札を披露したい。簡単に手みじかな文章にしてあるのは、通知する相手を小範囲に限ってゐるためだらう。それも、開店する主人を以前から知つている人たちだけに送る予想で書かれたものらう。これの筆者は、主に児童文学や児童教育について批評文を書き、その方面では第一人者といはれてゐる。ほかに婦人問題についても批評文を書いてゐる。いつも犀利な見方した理論的な批評文を書く人だが、この引札の文章は案外のどかである。何となく気が置けないやうな気持がして、つい出かけて行きたくなる。ここがそれを書いた人の狙ひだらうか。

永井二郎さんの初代阿佐ヶ谷ぴのちおは、まことにたのしいサロンでしたが、その永井さんが今度、中野駅のすぐそばに、中華料理「まりや」を開店しました。昔のままの気楽さです。私たちのサロンにいたしたく開店をお知らせします。小集会もできます。
-四人連名-

「たのしいサロンでしたが」と書いて、次にまた「私たちのサロンに」と書いたのは、酒のみの弱点を心得た仕方である。夕方、友達ほしさに出かけて行く者の気持を知つてゐる。
いま一つ、私の蒐集品のうちで代表的なものを挙げてみたい。実は、この引札を見てから私は引札の蒐集を思ひついたのである。

はせ川、このたび片商売にうなぎやをはじめました。これは昼間の時間をむだにあけて置くことの勿体ないことがおかみさんにわかつたからださうです。
勿論、これによつて、いままでの夜だけのはせ川の商売のそのありかたを、おろそかにするつもりはないさうです。どうぞ幾重にもよろしくと、これもおかみさんのいふところであります。-出前も致すさうです。しかるべく、お引立下さいまし。
なほ、鰻に関する料理人については、吾々のよく知つてゐる人ですからどうぞ御信用下さい。
-九人連名-

これの筆者は、劇作家として当代第一人者といはれてゐる人で、演出も堂に入つてゐる。すぐれた小説も書く。名前を云はなくたつと右の文章で誰だかすぐにわかるだろう。私がこの引札を数人の来訪者に見せたところ、みんな一様に、ダッシのあるところが素敵だと云つた。なかには、ダッシのところが「文章の銀がはりだね」と云ふ人もあつた。
一読して、折目が正しく、しかも酒脱であるところが絶好ではないか。とても立派な、すごい文章である。料理屋の引込思案の亭主を連れ、客筋を訪ねて「しかるべくお引立下さいまし」と挨拶してゐる人物の様子が浮かぶやうに描かれて来る。ユーモラスな気分さへも湧いて来る。