2/3「単身者の文学 - 川本三郎」岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

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2/3「単身者の文学 - 川本三郎岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

荷風は、自分が単身者であることにつねに自覚的だった。そして単身者だから出来るひそかな楽しみごとの世界に入っていった。大正から昭和のモダン都市東京には、そういう匿名の個人が身を隠す場所がいたるところに出来つつあった。
深夜にふと目をさます。ガラス窓の外が白く明るい。夜が明けたのかと思うとそうではない。いつの間にか庭に雪が積もっていたのである。興を覚え、ベッドから起き、ガスストーブに火をつけ、読みさしの本を再び読みはじめる。読むにつれ、興趣が増してゆく。
「このような気儘な一夜を送ることのできるのも、家の中[うち]に気がねをしたり、又は遠慮をしなければならぬ者の居ないがためである。妻子や門生のゐないがためである」
これもまた随筆「西瓜」のなかの一節である。荷風は、単身者である自分に充分に自覚的だった。
断腸亭日乗」には「孤独」の「孤」の字が非常に多く目につく。「孤燈」「孤坐」「孤眠」、あるいは「孤眠の清絶」。「孤」は荷風にとって単身者の反俗のダンディズムである。俗人と群れたり、徒党を組んだりしない。孤独の清潔さである。荷風が愛する「孤」は、また侘び住まいの静かな?情の源泉でもある。侘しさの詩情は「孤」があってはじめて生まれる。同時に「孤」は、無用者、余計者の美意識でもある。現実社会から降りたところに自分を規定した無用者にとっては、「孤」の状態が、もっとも自然になる。
荷風の「孤」にはそうしたさまざまな想いがこめられている。ときに「孤」を気取る。「孤」に沈潜する。「孤」の詩情をうたいあげる。「孤」ならではのひそかな楽しみをつづる。「孤」のわがままを得意気に披露してみせる。
大正十三年十二月十三日。その日、荷風は西大久保に弟威三郎の家族と住んでいる母を訪ねる。ところが威三郎の子ども二人がうるさく騒ぎたて、荷風は、母親とゆっくり話すことも出来ない。「悪童の暴行喧騒」に辟易する。そして早々に西大久保を引き上げ、麻布の静かな家(偏奇館)に帰る。そこでほっとしてこう書く。
「吾家の戸を推して内に入れば闃[げき]として音なく、机上に孤燈のけいけい[難漢字]たるを見るのみ。余は妻子なき身の幸いなるを喜ばずんばあらず。枕上柳湾漁唱[りゆうわんぎよしよう]第三集を読んで眠る」
ここでは「孤燈」こそが単身者荷風の心のよりどころであり、慰めである。妻子はいらない。「孤燈」さえあればよい。
子ども嫌いの荷風は、「日乗」昭和二年一月六日に、その日、偏奇館近くの箪笥町[たんすまち]崖下の小道を歩いていたら、一群の児童がうしろから、荷風をからかって拍手哄笑して逃走したという不快な出来事を記している。よほど腹が立ったのか、そこからむきになって日本の文教政策、国家教育の堕落にまで話を広げているのは、やや大仰すぎて思わず笑ってしまうが、最後に「余は唯老境に及んで吾が膝下に子孫なきを喜ばずんば非らざるなり」と書くのは、正直な気持だろう。

子どもを嫌っただけではない。荷風は妻という存在も嫌った。その気持は、「日乗」昭和二年九月二十二日の、夏目漱石の未亡人に対する批判のなかにあらわれている。
その日、たまたま「改造」十月号を読んでいたら夏目未亡人の漱石の思い出が談話の形で出ていた。そのなかで未亡人は漱石が「追?狂とやら称する精神病の患者」だったと語っていた。また、漱石の若いころの失恋のエピソードまで打ち明けている。荷風はこれを読んで「不快」に思う。夫の死後、妻たるものが夫の秘密を公けにするとはなにごとか。「未亡人の身として今更之を公表するとは何たる心得違ひぞや」「(漱石の)死後に及んで其の夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし、?何等の大罪、何等の不貞ぞや」と悲憤慷慨したあと、こうつけ加える。「余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり」
戦後、蘆原英了と行なった対談(「婦人公論」昭和三十三年一月号)では、最初の結婚がなぜだめになったのかという蘆原の質問に答えて荷風は、いかにも単身者らしい理由を挙げている。
「いやになつて来たそもそものはじまりは、その女の兄貴だの弟だのつていうのが、むやみと押しかけて来て、ひとの部屋に上りこんで勝手に机の引出しをあけたり、本を持つてつたりしたからですよ」
最初の結婚のあと荷風は奥さんと一緒にいるのがいやで、朝は五時、六時に起きて慶応に行ってしまい、帰りは帰りであちこちに寄つて十二時過ぎるまで家に戻らなかったという。そうしたら「そのうち向こうでいなくなつちまつた」。
子どもも嫌い、妻も嫌い。その単身者へのこだわりは徹底している。そして家族を必要としない荷風にとっては、子どもよりも妻よりも金のほうが大事になるのは当然である。単身者の自由を保障してくれるのは、金といううっとうしくないものしかない。相磯凌霜[あいそりようそう]のインタビュー集『荷風思出草』(毎日新聞社、昭和三十年)のなかで、もし入院するようなことになったらどうするのかという質問に答え、「そうなれば結局子供よりお金ということになるお金がなければ子供もうまくいかないから、お金がいちばんということになってくる......」。巷間よくいわれた「荷風はケチ」の裏には、単身者としての自由な生活をまっとうするためには経済的な安定しかないという荷風のリアリズム感覚があつた。
単身者荷風のひせかな楽しみごとのひとつは、夏の曝書と、晩秋の落葉掃きである。大正十四年八月三十日。この日、荷風は、庭でひとり曝書をする。本の虫干し。
「風ありて稍涼し。曝書の旁久しく見ざりし書物何といふことなく読みあさるほどに、暑き日も忽ち西に傾き、つくつく法師の啼きしきる声せわしなく、行水つかふ頃とはなるなり。予は毎日この時刻に至り、独り茫然として薄暮の空打ながめ、近隣の家より夕げの物煮る臭の漂ひ来り、垣越しに灯影のちらほら輝き出るを見る時、何とも知らず独無限の詩味をおぼえて止まざるなり」
「無限の詩味」は、単身者のささやかな独居から生まれている。
「孤燈」「孤坐」「孤眠」は荷風にとってもっとも心落着く、よりどころである。誰にも邪魔されることなくひとり、読書し、気ままに書を虫干しし、日が落ちると眠りにつく。単身者のユートピアのような時間と空間が「断腸亭日乗」のなかでさまざまな形を取って優雅にあらわれる。
大正六年十月二十五日。「朝より大雨終日や歇[や]まず。庭上雨水海の如く点滴の響滝の如し。夜に入つて風また加はる。燈下孤坐。机によ[難漢字]るに窗外[そうがい]尚残蛩[ざんきよう]の啼くを聞く。哀愁いよいよ深し」
単身者の気楽さは、正月によくあらわれる。どこにも年賀に行かないし、客もこない。大正七年一月一日はわずか一行のみ。「例によつて為す事もなし。午の頃家の内暖くなるを待ちそこら取片づけ塵を払ふ」
正月から部屋掃除をしている。これも単身者のひそかな楽しみのうち。二日は父親の命日なので例年のとおり、雑司ヶ谷に墓参に行く。
一月三日には早くも机に向かう。「燈下に粥を煮、葡萄酒二三杯を傾け暖を取りて後机に対す」