「新旧東京雑題 - 岡本綺堂」旺文社文庫 綺堂むかし語り から

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「新旧東京雑題 - 岡本綺堂旺文社文庫 綺堂むかし語り から

祭礼

東京で著しく廃れたものは祭礼[まつり]である。江戸以来の三大祭りといえば、麹町の山王、神田の明神、深川の八幡として、ほとんど日本国じゅうに知られていたのであるが、その祭礼はむかしの姿をとどめないほどに衰えてしまった。たとい東京に生まれたといっても、二十代はもちろん、三十代の人では、ほんとうの祭礼らしいものを見た者はあるまい。それほどの遠い昔から、東京の祭礼は衰えてしまったのである。
震災以後は格別、その以前には型ばかりの祭礼を行わないでもなかったが、それは文字通りの「型ばかり」で、軒提灯に花山車[はなだし]ぐらいにとどまっていた。その花山車も各町内から曳き出すというわけではなく、氏子の町々も大体においてひっそり閑としていて、いわゆる天下祭りなどという素晴らしい威勢はどこにも見いだされなかった。
わたしの記憶しているところでは、神田の祭礼は明治十七年の九月が名残りで、その時には祭礼番附が出来た。その祭礼ちゅうに九月十五日の大風雨[おおあらし]があって、東京府下だけでも丸潰れ千八十戸、半つぶれ二千二百二十五という大被害で、神田の山車小屋などもみな吹き倒された。それでも土地柄だけに、その後も隔年の大祭を怠らなかったが、その繁昌は遂に十七年度の昔をくり返すに至らず、いつとはなしに「型ばかり」のものになってしまった。
山王の祭礼は三大祭りの王たるもので、氏子の範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合しているので、江戸の祭礼のうちでも最も華麗をきわめたのである。わたしは子供のときから麹町に育って、氏子の一人であったために、この祭礼を最もよく知っているが、これは明治二十年六月の大祭を名残りとして、その後は著しく衰えた。近年は神田よりも寂しいくらいである。
深川の八幡はわたしの家から遠いので、詳しいことを知らないが、これも明治二十五年の八月あたりが名残りであったらしく、その後に深川の祭礼が賑やかに出来たという噂を聞かないようである。ここは山車や踊り屋台よりも各町内の神輿[みこし]が名物で、俗に神輿祭りと呼ばれ、いろいろの由緒つきの神輿が江戸の昔からたくさん保存されていたのであるが、先年の震災で大かた焼亡[しようもう]したことと察せられる。
そういうわけで、明治時代の中ごろから東京には祭礼らしい祭礼はないといってよい。明治の末期や大正時代における「型ばかり」の祭礼を見たのでは、とても昔日[せきじつ]の壮観を想像することは出来ない。京の祇園会[ぎおんえ]や大阪の天満[てんま]祭りは今日どうなっているのか知らないが、東京の祭礼は実際においてほろびてしまった。しょせん再興はおぼつかない。

 

湯屋

湯屋風呂屋という人が多くなっただけでも、東京の湯屋の変遷が知られる。三馬[さんば]の作に「浮世風呂」の名があっても、それは書物の題号であるからで、それを口にする場合には銭湯[せんとう]とか湯屋[ゆウや]とかいうのが普通で、元禄のむかしは知らず、文化文政から明治に至るまで、東京の人間は風呂屋などという者を田舎者として笑ったのである。それが今日では反対になって来たらしい。
湯屋の二階はいつ頃まで残っていたか、わたしにも正確な記憶がないが、明治二十年、東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布されてから、おそらくそれと同時に禁止されたのであろう。わたしの子供のときには大抵の湯屋に二階があって、そこには若い女が控えていて、二階にあがった客はそこで新聞を読み、将棋をさし、ラムネをのみ、麦湯を飲んだりしたのである。それを禁じられたのは無論風俗上の取締りから来たのであるが、たといその取締りがなくても、カフェ-やミルクホールの繁昌する時代になっては、到底存続すべき性質のものではあるまい。しかし、湯あがりに茶を一ぱい飲むのも悪くはない。湯屋のとなりに軽便な喫茶店を設けたらば、相当に繁昌するであろうと思われるが、東京ではまだそんなことを企てたのはないようである。
五月節句の菖蒲湯、土用のうちの桃湯、冬至の柚湯 - そのなかで桃湯は早くすたれた。暑中に桃の葉を沸かした湯にはいると、虫に食われないと云うのであったが、客が喜ばないのか、湯屋の方で割に合わないのか、いつとはなしに止められてしまったので、今の若い人は桃湯を知らない。菖蒲湯も柚湯も型ばかりになってしまって、これもやがては止められることであろう。
むかしは菖蒲湯又は柚湯の日には、湯屋の番台に三方[さんぽう]が据えてあって、客の方では「おひね[難漢字]り」と唱え、湯屋を半紙にひねって三方の上に置いてゆく。もちろん、規定の湯銭よりも幾分か余計につつむのである。ところが、近年はそのふうがやんで、菖蒲湯や柚湯の日でも誰もおひねりを置いてゆく者がない。湯屋の方でも三方を出さなくなった。そうなると、湯屋に取っては菖蒲や柚代だけが全然損失に帰するわけになるので、どこの湯屋でもたくさんの菖蒲や柚を入れない。甚だしいのになると、風呂から外に持ち出されないように、菖蒲をたばねて縄でくくりつけるのもある。柚の実を麻袋に入れてつないで置くのもある。そんな殺風景なことをする程ならば、いっそ桃湯同様に廃止した方がよさそうである。
朝湯は江戸以来の名物で、東京の人間はあさ湯のない土地には住めないなどと威張ったものであるが、その自慢のあさ湯も大正八年の十月から一斉に廃止となった。早朝から風呂を焚いては湯屋の経済が立たないと云うのである。しかし客からの苦情があるので、近年あさ湯を復活したところもあるが、それは極めて少数で、大体においては午後一時ごろに行ってもまだ本当に沸いていないというのが通例になってしまった。江戸っ子はさんざんであるが、どうも仕方がない。あさ湯は十銭取ったら好かろうなどという説もあるが、これも実行されそうもない。

 

そば屋

そば屋は昔よりも著るしく綺麗になった。どうゆうわけか知らないが、湯屋蕎麦屋とその歩調をおなじくするもので、湯銭があがれば蕎麦の代もあがり、蕎麦の代が下がれば湯屋も下がるということになっていたが、近年は湯銭の五銭に対して蕎麦の盛[もり]、掛[かけ]は十銭という倍額になった。もっとも、湯屋の方は公衆の衛生問題という見地から、警視庁でその値あげを許可しないのである。
私たちの書生時代には、東京じゅうで有名の幾軒を除いては、どこの蕎麦屋もみな汚いものであった。綺麗な蕎麦屋に蕎麦の旨いのは少ない、旨い蕎麦を食いたければ汚い家へゆけと昔から云い伝えたものであるが、その蕎麦屋がみな綺麗になった。そうして、大体においてまずくなった。まことに古人われを欺かずである。山路愛山[やまじあいざん]氏が何かの雑誌に蕎麦のことを書いて、われわれの子供などは蕎麦は庖丁で切るものであると云うことを知らず、機械で切るものと心得て食っているとか云ったが、確かに機械切りの蕎麦は旨くないようである。そば切り庖丁などという詞はいつか消滅するであろう。
人間が贅沢になって来たせいか、近年はそば屋で種物を食う人が非常に多くなった。それに応じて種物の種類もすこぶる殖えた。カレー南蛮などという不思議なものさえ現われた。ほんとうの蕎麦を味わうものは盛か掛を食うのが普通で、種物などを喜んで食うのは女子供であると云うことになっていたが、近年はそれが一変して、銭[ぜに]のない人間が盛、掛を食うと云うことになったらしい。種物では本当のそばの味はわからない。そば屋が蕎麦を吟味しなくなったのも当然である。
地方の人が多くなった証拠として、饂飩[うどん]を食う客が多くなった。蕎麦屋は蕎麦を売るのが商売で、そば屋に行って饂飩をくれなどと云うと、田舎者として笑われたものであるが、この頃は普通のそば屋ではみな饂飩を売る。お亀とか天ぷらとかいって注文すると、おそばでございますか、饂飩台でございますかと聞き返される場合が多い。黙っていれば蕎麦にきまっていると思うが、それでも念のために饂飩であるかないかを確かめる必要がある程に、饂飩を食う客が多くなったのである。
かの鍋焼きうどんなども江戸以来の売り物ではない。上方[かみがた]では昔から夜なきうどんの名があったが、江戸は夜そば売りで、俗に風鈴そばとか夜鷹そばとか呼んでいたのである。鍋焼きうどんが東京に入り込んできたのは明治以後のことで、黙阿弥の「嶋鵆月白浪[しまちどりつきのしらなみ]」は明治十四年の作であるが、その招魂社鳥居前の場で、堀の内まいりの男が夜そばを食いながら、以前とちがって夜鷹そばは売り手が少なくなって、その代りに鍋焼きうどんが一年増しに多くなった、と話しているのを見ても知られる。その夜そば売りも今ではみな鍋焼きうどんに変わってしまった。中にはシュウマイ屋に化けたのもある。
そば屋では大正五、六年頃から天どんや親子どんぶりまでも売りはじめた。そば屋がうどんを売り、さらに飯までも売ることになったのである。こうなると、蕎麦のうまいまずいなどはいよいよ論じていられなくなる。
(昭和2・4「サンデー毎日」)