1/3「里の今昔 - 永井荷風」日本の名随筆 色街 から

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1/3「里の今昔 - 永井荷風」日本の名随筆 色街 から

昭和二年の冬、酉の市へ行った時、山谷堀は既に埋められ、日本堤は丁度取崩しの工事中であった。堤から下りて大音寺前の方へ行く曲輪[くるわ]外[そと]の道も亦取広げられてゐたが、一面に石塊[いしころ]が敷いてあつて歩くことができなかつた。吉原を通りぬけて鷲[おほとり]神社の境内に出ると、鳥居前の新道路は既に完成してゐて、平日は三輪[みのわ]行の電車や乗合自動車の往復する事をも、わたくしは其日初めて聞き知つたのである。
吉原の遊里は今年昭和甲戊の秋、公娼廃止の令の出づるを待たず、既に数年前、早く滅亡してゐたようなものである。其旧習と其情趣とを失へば、この古き名所は在つても無いのと同じである。
江戸のむかし、吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵とであつた。明治時代の吉原と其附近の町との情景は、一葉女史の「たけくらべ」、広津柳浪の「今戸心中」、泉鏡花の「註文帳」の如き小説に、滅び行く最後の面影を残した。
わたくしが弱冠の頃、初めて吉原の遊里を見に行つたのは明治三十年の春であつた。「たけくらべ」が文芸倶楽部第二巻第四号に、「今戸心中」が同じく第二巻の第八号に掲載せられた其翌年である。
当時遊里の周囲は、浅草公園に向ふ南側千束町[せんぞくまち]三丁目を除いて、その他の三方にはむかしのままの水田[みずた]や竹藪や古池などが残つてゐたので、わたくしは二番目狂言の舞台で見馴れた書割、または「はや悲し吉原いでで麦ばたけ」とか、「吉原へ矢先そろへて案山子かな。」など云ふ江戸座の発句を、そのままの実景として眺めることができたのである。
浄瑠璃と草双紙とに最初の文学的熱情を誘ひ出されたわれわれには、曲輪外のさびしい町と田圃の景色とが、いかに豊富なる魅力を示したであらう。
その頃、見返柳[みかえりやなぎ]の立つてゐた大門[おおもん]外の堤に佇立んで、東の方[かた]を見渡すと、地方[じかた]今戸町[いまどまち]の低い人家の屋根を越して、田圃のかなたに小塚ッ原の女郎屋の裏手が見え、堤の直ぐ下には屠牛場や元結[もとゆひ]の製造場などがあつて、山谷堀へつづく一条の溝渠が横はつてゐた。毒だみの花や、赤のままの花の咲いてゐた岸には、猫柳のやうな灌木が繁つてゐて、髪洗橋[かみあらひばし]などといふ腐つた木の橋が幾筋もかかつてゐた。
見返柳を後にして堤の上を半町ばかり行くと、左手へ降る細い道があつた。此が竜泉寺町[りゆうせんじまち]の通で、「たけくらべ」第一回の書初めに見る叙景の文は即ちこの処であつた。道の片側は鉄漿溝[おはぐろどぶ]に沿うて、廓者[くるわもの]の住んでゐる汚い長屋の立ちつづいた間から、江戸町一丁目と揚屋町[あげやまち]との非常門を望み、また、女郎屋の裏木戸ごとに引上げられた幾筋のはね[難漢字]橋が見えた。道は少し北へ曲つて、長屋の間を行くこと半町ばかりにして火の見梯子の立つてゐる四辻に出る。このあたりを大音寺前と称へたのは、四辻の西南[にしみなみ]の角に大音寺といふ浄土宗の寺があつたからである。辻を北に取れば龍泉寺の門前を過ぎて千束稲荷の方へ抜け、また真直に西の方へ行けば、三島神社の石垣について阪本通へ出るので、毎夜吉原通ひの人力車がこの道を引きもきらず、提灯を振りながら走り過るのを、「たけくらべ」の作者は「十分間に七十五輛」と数へたのであつた。

長屋は追々まばらになつて、道も稍ひろく、その両側を流れる溝[とぶ]の水に石橋をわたし、生茂る竹むらを其儘に垣にした閑雅な門構の家がつづき出す。わたくしは曾てそれ等の中の一構[ひとかまへ]が、有名な料理屋田川屋の跡だといふはなしを聞いたことがあった。「たけくらべ」に描かれてゐる龍華寺[りゆうげじ]といふ寺。またおしやまな娘美登里[みどり]のすんでゐた大黒屋の寮なども大方このあたりのすたれた寺や、風雅な潜門[くぐりもん]の家を、其のまま資料にしたものであらうと、通るごとにわたくしは門の内をのぞかずには居られなかつた。江戸時代に楓[もみじ]の名所と云はれた正燈寺[しようとうじ]も亦大音寺前に在つたが、庭内の楓樹は久しき以前、既に枯れつくして、わたくしが散歩した頃には、門内の一樹がわづかに昔の名残を留めてゐるに過ぎなかつた。
大音寺は昭和の今日でも、お酉様の鳥居と筋向ひになつて、もとの処に仮普請の堂を留[とで]めてゐるが、然し周囲の光景があまりに甚しく変つてしまつたので、これを尋ねて見ても、同じ場処ではないやうな気がする程である。明治三十年頃、わたくしが「たけくらべ」ま「今戸心中」をよんで歩き廻つた時分のことを思ひ返すと、大音寺の門は現在電車通りに石の柱の立つてゐる処ではなくして、別の処に在つて其向きも亦ちがつてゐたやうである。現在の門は東向きであるが、昔は北に向ひ、道端からずつと奥深い処に在つたやうに思はれるが、然しこの記憶も今は甚だおぼろである。その頃お酉様の鳥居前へ出るには、大音寺前の辻を南に曲つて行つたやうな気がする。辻を曲ると、道の片側には小家のつづいた屋根のうしろに吉原病院が見え、片側は見渡すかぎり水田のつづいた彼方に太郎稲荷の森が見えた。吉原田圃はこの処を云つたのである。裏田圃とも、また浅草田圃とも云つた。単に反歩[たんぼ]とも云つたやうである。