2/3「里の今昔 - 永井荷風」日本の名随筆 色街 から

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2/3「里の今昔 - 永井荷風」日本の名随筆 色街 から

吉原田圃の全景を眺めるには廓内京町[くるわないきやうまち]一二丁目の西側、お歯黒溝に接した娼楼の裏窓が最も其処[そのところ]を得てゐた。この眺望は幸にして「今戸心中」の篇中に委しく描き出されてゐる。即ち次の如くである。

忍ヶ岡と太郎稲荷の森の梢には朝陽[あさひ]が際立ッて映[あた]ッて居[ゐ]る。入谷は尚ほ半分靄に包まれ、吉原田圃は一面の霜である。空には一群[ひとむれ]一群の小鳥が輪を作ッて南の方へ飛んで行き、上野の森には烏が噪ぎ始めた。大鷲[おおとり]神社の傍[そば]の田甫の白鷺が、一羽起ち二羽起ち三羽立つと、明日の酉の市の売場に新らしく掛けた小屋は二三個[にん]の人が見[あら]はれた。鉄漿溝は泡立ッた儘凍ッて、大音寺前の温泉の烟は風に狂ひながら流れてゐる。一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見る中に岡の裾を?ッて、根岸に入ッたかと思ふと、天王寺の森に其煙も見えなくなッた。

この文を読んで、現在はセメントの新道路が松竹座の前から三ノ輪に達し、また東西には二筋の大道路が隅田川の岸から上野谷中の方面に走つてゐるさまを目撃すると、曾て三十年前に白鷺の飛んでゐたところだとは思はれない。わたくしがこの文についてここに註釈を試みたくなつたのも、滄桑の感に堪へない余りである。
「忍ヶ岡」は上野谷中の高台である。「太郎稲荷」はむかし柳河藩主立花氏の下屋敷に在つて、文化のころから流行[はや]りはじめた。屋敷の取払はれた後、社殿と其周囲の森とが浅草光月町[こうげつちやう]に残つてゐたが、わたくしが初めて尋ねて見た頃には、其社殿さへわづかに形[かた]ばかりの小祠になつてゐた。「大音寺前の温泉」とは普通の風呂屋ではなく、料理屋を兼ねた旅館ではないかと思はれる。其名前や何かは之を詳にしない。当時入谷には「松源」、根岸に「塩原[しほばら]」、根津に「紫明館[しめいくわん]」、向島に「植半[うゑはん]」、秋葉に「有馬温泉」などいふ温泉宿があつて、芸妓をつれて泊りに行くものも?くなかつた。「今戸心中」はその発表せられたころ、世の噂によると、京町二丁目の中米楼[なかごめろう]に在つた情死を材料にしたものだと云ふ。然し中米楼は重に茶屋受の客を迎へてゐたのに、「今戸心中」の叙事には引手茶屋のことが見えてゐない。その頃裏田圃が見えて、そしてはね[難漢字]橋のあつた娼家で、中米楼についで稍格式のあつたものは、わたくしの記憶する所では京二の松大黒[まつだいこく]と、京一の稲弁[いなべん]との二軒だけで、其他は皆小格子[こがうし]であった。
「今戸心中」が明治文壇の傑作として永く記憶せられてゐるのは、篇中の人物の性格と情緒とが余す所なく精細に叙述せられてゐるのみならず、又妓楼全体の生活が渾然として一幅の風俗画をなしてゐるからである。篇中の事件は酉の市の前後から説き起されて、年末の煤払ひに終つてゐる。吉原の風俗と共に情死の事を説くには最も適切な時節を択んだところに作者の用意と苦心とが窺はれる。わたくしはここに最終の一節を摘録しやう。

小万[こまん]は涙ながら写真と遺書[かきおき]とを持つたまま、同じ二階の吉里[よしざと]の室[へや]へ走ツて行ツて見ると、素より吉里の居[を]らう筈がなく、お熊を始め書記[かきやく]の男と他[ほか]に二人ばかり騒いでゐた。小万は上[かみ]の間[ま]に行ツて窓から覗いたが、太郎稲荷、入谷、金杉あたりの人家の灯火[ともしび]が散見[ちらつ]き、遠く上野の電気灯が鬼火[ひとだま]の様に見えて居るばかりである。
次の日の午時頃[ひるごろ]、浅草警察署の手で、今戸の橋場寄りの或露地の中に、吉里が着て行ツたお熊の半天が脱捨[ぬぎすて]てあり、同じ露地の隅田川の岸には娼妓[じよろう]の用ゐる上草履と男物の麻裏草履とが脱捨てあツた事が知れた。(略)お熊は泣々[なくなく]箕輪[みのわ]の無縁寺に葬むり、小万はお梅を遣ツては、七日七日の香華を手向けさせた。

 

箕輪の無縁寺は日本堤の尽きやうとする処から、右手に降りて、畠道を行く事一二町の処に在つた浄閑寺を云ふのである。明治三十一二年の頃、わたくしが掃墓に赴いた時には、堂宇は朽廃し墓地も荒れ果ててゐた。この寺はむかしから遊女の病死したもの、又は情死して引取手のないものを葬る処で、安政二年の震災に死した遊女の供養塔が目に立つばかり。其他の石は皆小さく蔦かつらに蔽はれてゐた。その頃年少のわたくしが此寺の所在を知つたのは宮戸座の役者達が新比翼塚なるものに香華を手向けた話をきいた事からであつた。新比翼塚は明治十二三年のころ品川楼で情死をした遊女盛糸[せいし]と内務省の小吏谷豊栄二人[ににん]の追善に建てられたのである。(因に云ふ、竜泉寺町の大音寺も亦遊女の骨を埋めた処で、むかし蜀山人が碑の全文を里言葉でつくつた遊女なにがしの墓のある事を故老から聞き伝へて、わたくしは両三度之を尋ねたが遂に尋ね得なかつた事がある。)
日本堤を行き尽して浄閑寺に至るあたりの風景は、三四十年後の今日、これを追想すると、恍として前世を悟る思ひがある。堤の上は大門近くとはちがつて、小屋掛けの飲食店もなく、車夫も居ず、人通りもなく、榎か何かの大木が立つてゐて、其幹の間から、堤の下に竹垣を囲[めぐら]し池を穿つた閑雅な住宅の庭が見下された。左右ともに水田のつづいていた彼方には鉄道線路の高い土手が眼界を遮つてゐた。そして遥か東の方に小塚ツ原の大きな石地蔵の後向きになつた背が望まれたのである。わたくしは若し当時の遊記や日誌を失はずに持つてゐたならば、読者の倦むをも顧ずこれを採録せずには居なかつたであらう。
わたくしは遊廓をめぐる附近の町の光景を説いて、今余すところは南側の浅草の方面ばかりとなった。吉原から浅草に至る通路の重なるものは二筋あつた。その一筋は大門を出て堤を右手に行くこと二三町、むかしは土手の平松[ひらまつ]とか云つた料理屋の跡を、そのままの牛肉屋常磐[ときは]の門前から斜に堤を下り、やがて真直に浅草公園の十二階下に出る千束二三丁目の通りである。他の一筋は堤の尽きるところ、道哲[どうてつ]の寺のあるあたりから田町へ下りて馬場へつづく大通である。電車のない其時分、廓へ通ふ人の最も繁く往復したのは、千束二三丁目の道であつた。
この道は、堤を下[おり]ると左側には曲輪の側面、また非常門の見えたりする横町が幾筋もあつて、車夫や廓者などの住んでゐた長屋がつづいてゐた光景は、「たけくらべ」に描かれた大音寺前の通りと変りがない。やがて小流れに石の橋がかかつてゐて、片側に交番、片側に平野といふ料理屋があつた。それから公園に近くなるにつれて商店や飲食店が次第に増えて、賑な町になるのであつた。
震災の時まで、市川猿之助君が多年住んでいた家はこの通の西側に在つた。酉の市の晩には夜通し家を開け放ちにして通りがかりの来客に酒肴[さけさかな]を出すのを吉例としてゐたさうである。明治三十年頃には庭の裏手は一面の田圃であつたといふ話を聞いたことがあつた。さればそれより以前には、浅草から吉原へ行く道は馬道の他は、皆[みな]田間[でんかん]の畦道であつた事が、地図を見るに及ばずして推察せられる。
たけくらべ」や「今戸心中」のつくられた頃、東京の町にはまだ市区改正の工事も起らず、従つて電車もなく、また電話もなかつたらしい。「今戸心中」をよんでも娼妓が電話を使用するところが見えない。東京の町々はその場処場処によつて、各固有の面目を失はずにゐた。例へば永代橋辺と両国辺とは、土地の商業をはじめ万事が同じではなかつたやうに、吉原の遊里もまたどうやらかうやら伝来の風習と格式とを持続して行く事ができたのである。