(巻二十八)まず一歩より逸れてゆく西瓜割(坂井和子)

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(巻二十八)まず一歩より逸れてゆく西瓜割(坂井和子)

2月7日日曜日

朝家事:

今朝はミカンの鉢に水を遣るくらいで家事はなかったが、浴室のシャワーの栓が弛く水滴かポタリ...ポタリで叱られた。昨晩、風呂を出るときの確認が甘かったな。反省です。

夜の音生む蛇口締めなほす(福永耕二)

細君は生協に行きお花も買ってきた。わが家の贅沢はこれかな。

散歩:

コンビニで珈琲を喫し、図書館に廻って4冊返却。生協で指示された調味料とお茶を買う。八百円のお茶は、自分のコンビニ珈琲は棚にあげて、贅沢だと思う。

本日は三千八百歩で階段は2回でした。

朝日俳壇:

しばらくは自問自答の冬籠(高橋とも子)

を書き留めました。

読書:

「痛み - 阿刀田高」日本の名随筆28病 から

を読んでいる。

《知合いの医師から、人間の感ずる痛みには三種類ある、と聞かされた。

一つは切り疵の痛み、ズキン、ズキンと疼く痛みで、これはだれでも体験があるだろう。

腕を切断した人から、「夜になると、ないはずの腕が痛みたすんだよ。これはせつないぜ」と、教えられたことがあるが、この話は今でも強く印象に残っている。神経のほうは、まだ切断された現実に慣れていないので、今まで通りに腕先の、末端の疼きを脳に伝えるのだろう。病人の狼狽ぶりま実感されて、なにやらブラック・ユーモアの漂う体験談であった。

話をもとに戻して-二番目は、心臓の痛み。心臓には神経がないはずだが、狭心症の発作のときなどには、やはり痛みが走るものらしい。「なんと言うのかな、命が果てるような、息苦しい痛さだ」と、医師は説明してくれたが、なにぶんにも感覚的なことなので、心臓の丈夫な私にはあまりよくわからない。おそらく絶望的な痛さであり、必死にこらえないと、たちまち命を持って行かれてしまうような、そんな苦しさにちがいあるまい。

最後は内臓の感ずる痛み。これも医学的には根拠がはっきりしないのだが、「男ならある程度見当がつく。キンタマを蹴られたときの痛さだ」ということであった。》

内臓の痛さになるのであろう、結石の痛さは少し知っている。少しが問題であった。痛みが我慢できてしまったので手遅れになってしまった。痛みは大切な警報だ。

願い事-叶えてください。どうせ死ぬのなら痛くない方にしてください。どうせ死ぬのならモルヒネを大盛りでお願いします。

点滴のモルヒネとなり夕桜(結城節子)