3/3「里の今昔 - 永井荷風」日本の名随筆 色街 から

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3/3「里の今昔 - 永井荷風」日本の名随筆 色街 から

泉鏡花の小説「註文帳」が雑誌新小説に出たのは明治三十四年で、一葉柳浪の作におくれること五六年である。二六新報の計画した娼妓自由廃業の運動はこの時既に世人の話柄となつてゐたが、遊里の風俗は猶依然として変る所のなかつた事は、「註文帳」の中に現れ来る人物や事件によつて窺ひ知ることが出来る。
「註文帳」は廓外の寮に住んでゐる娼家の娘が剃刃の?でその恋人を刺す話を述べたもので、お歯黒溝に沿うた陰鬱な路地裏の光景と、ここに棲息して娼妓の日用品を作つたり取扱つたりして暮しを立ててゐる人達の生活が描かれてゐる。研屋[とぎや]の店先とその親爺との描写は此作者にして初めて為し得べき名文である。わたくしは「今戸心中」が其時節を年の暮に取り、「たけくらべ」が残暑の秋を時節にして、各その創作に特別の風趣を添へてゐるのと同じく、「註文帳」の作者が篇中その事件を述ぶるに当つて雪の夜を択んだことを最も巧妙なる手段だと思つてゐる。一立斎広重の板画について、雪に埋れた日本堤や大門外の風景をよろこぶ鑑賞家は、鏡花子の筆致の之に匹如たることを認めるであろう。
鉄道馬車が廃せられて電車に替へられたのは、たしか明治三十六年である。世態人情の変化は漸く急激となつたが、然し吉原の別天地は猶旧習を保持するだけの余裕があつたものと見え、毎夜の張見世は猶廃止せられず、時節が来れば桜や仁和賀[にはか]の催しも亦つづけられてゐた。
わたくしは此年[このとし]から五六年、図らずも羇旅の人となつたが、明治四十一年の秋、重ねて来り見るに及んで、転た前度の劉郎たる思ひをなさねばならなかつた。仲[なか]の町[ちよう]にはビーヤホールが出来て、「秋信先通ず両行の灯影」といふやうな町の眺めの調和が破られ、張店[はりみせ]がなくなつて五丁町[ごちようまち]は薄暗く、土手に人力車の数の少なくなつた事が際立つて目についた。明治四十三年八月の水害と、翌年[あくるとし]四月の大火とは遊里と其周囲の町の光景とを変じて、次第に今日の如き特徴なき陋巷に化せしむる階梯をつくつた。世の文学雑誌を見るも遊里を描いた小説にして、当年の傑作に匹?すべきものは全くその跡を断つに至つた。
遊里の光景と風俗とは、明治四十二三年以後に在つては最早やその時代の作家をして創作の感興を催さしむるには適しなくなつたのである。何が故に然りと云ふや。わたくしは一葉柳浪鏡花等の作中に現れ来[きた]る人物の境遇と情緒とは、江戸浄瑠璃中のものに彷彿としてゐる事を言はねばならない。そして又、それ等の人物は作家の趣味から作り出されたものでなく、皆実在のものをモデルにしてゐた事も一言して置かねばならない。ここに於いてわたしくは三四十年以前の東京に在つては、作者の情緒と現実の生活との間に今日では想像のできない美妙なる調和が在つた。この調和が即ち斯くの如き諸篇を成さしめた所以である事を感じるのである。

明治三十年代の吉原には江戸浄瑠璃に見るが如き叙事詩的の一面が猶実在してゐた。「今戸心中」、「たけくらべ」、「註文帳」の如き諸作はこの叙事詩的の一面を捉へ来つて描写の功を成したのである。「たけくらべ」第十回の一節はわたくしの所感を証明するに足りるであらう。

春は桜の賑ひよりかけて、なき玉菊か灯籠の頃、つづいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶこと此通りのみにて七十五輛と数へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉田圃に乱るれば、横堀に鶉[うずら]なく頃も近[ちかづ]きぬ。朝夕の秋風身にしみ渡りて、上清[じようせい]が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋や田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細道に落ちかかるやうな三味の音を仰いで聞けば、仲之町芸者が冴えたる腕に、君が情の仮?の床にと何ならぬ一ふしあはれも深く、此時節より通ひ初[そ]むるは浮かれ浮かるる遊客ならで、身にしみじみと実のあるお方のよし、遊女[つとめ]あがりのさる人が申しき。

一葉が文の情調は柳浪の作中について見るも更に異なる所がない。二家の作は全く其形式を異にしてゐるのであるが、其情調の叙事詩的なることは同一である。「今戸心中」第一回の数行を見よ。 

太空[そら]は一片の雲も宿[とど]めないが黒味渡ツて、廿四日の月は未だ上らず、霊あるが如き星のきらめきは、仰げば身も冽[しま]るほどである。不夜城を誇顔の電気灯は、軒より下の物の影を往来に投げて居れど、霜枯三月[しもがれみつき]の淋しさは免れず、大門から水道尻まで、茶屋の二階に甲走ツた声のさざめきも聞えぬ。
明後日が初酉の十一月八日、今年は稍温暖[あたたか]く小袖を三枚重襲[みツつかさね]る程にもないが、夜が深けては流石に初冬の寒気[さむけ]が感じられる。
少時前[いまのさき]報[う]ツたのは、角海老の大時計の十二時である。京町には素見客[ひやかし]の影も跡を絶ち、角町[すみちやう]には夜を警[いまし]めの鉄棒[かなぼう]の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店にも稍雑談[はなし]の途断[とぎ]れる時分となツた。
廊下には上草履の音がさびれ、台の物の遺骸を今室[へや]の外へ出して居る所もある。遥かの三階からは甲走ツた声で、喜助どん喜助どんと床番を呼んでいる。

遊里の光景と其生活とには、浄瑠璃を聴くに異らね一種の哀調が?つていた。この哀調は、小説家が其趣味から作り出した技巧の結果ではなかった。独り遊里のみに限らない。この哀調は過去の東京に在つては繁華な下町にも、静かな山の手の町にも、折に触れ時につれて、切々として人の官覚を動す力があつた。然し歳月の過るに従ひ、繁激なる近世的都市の騒音と灯光とは全くこの哀調を滅してしまつたのである。生活の音調が変化したのである。わたくしは三十年前の東京には江戸時代の生活の音調と同じきものが残つてゐた。そして、その最後の余韻が吉原の遊里に於て殊に著しく聴取せられた事をここに語ればよいのである。
遊里の存亡と公娼の興廃の如きはこれを論ずるに及ばない。ギリシア古典の芸術を尊むがために、誰か今日、時代の復古を夢見るものがあらう。