「悪人の自覚 - 亀井勝一郎」日本の名随筆98「悪」 から

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「悪人の自覚 - 亀井勝一郎」日本の名随筆98「悪」 から

「善人なをもて、往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。」歎異抄

歎異抄」は、親鸞の語録として、その弟子の唯円によつて伝へられたものである。その中でもこれは有名な一節である。一九六一年は親鸞が歿してから、ちやうど七百年目にあたるので、京都の東西本願寺では盛大な遠忌が行なはれた。それを記念するつもりもあつて、この言葉について考へて見ようと思つた。浄土真宗の中心思想を端的に語つたものだが、それがどのような意味で今日の我々にも訴へてくるか、親鸞の心をゆがめないやうに、充分注意しながら、現代風に考へてみよう。

善人すらなほ往生(救ひ)をとげることが出来る、まして悪人が往生をとげえないはずはないではないか。ところが世の人は、これとは逆に、悪人でさへ往生することが出来る、まして善人が往生しない道理はないと言つてゐる。親鸞はさういふ「世のひと」に一種の反語をもって向つてゐるのである。善人とは何か、悪人とは何か、同時に「救ひ」とは何か、さういふ大切な問題がこの一節にふくまれてゐる。
今日の我々の常識から言つても、善人ほど救はれる存在だと思ふ。何ものかを信じて、悪人がもし救はれるなら、善人はなほさら優先的に救はれるはずだと思ふ。ところが親鸞はそれと反対に、悪人こそむしろ救はれるべきではないかと言つてゐるわけで、一見奇異に聞こえるが、ここに親鸞の「他力信仰」の核心があるのである。

まづ我々自身が、あいつは善人だ、あいつは悪人だと区別する場合がよくあるが、そのときの判断は一体正しいだらうか。善悪の区別を、我々は確実に決定できるだらうか。考へてみると、大へんあいまいである。たとへば何か法律上の罪を犯した人間は、世の中からは悪人とみなされるが、さうでない人間はすべて善人だらうか。この疑問を抱いてみよう。
ここで大切なことは、他人よりも自分の心の中をまづふりかへつてみることだ。たとへば、自分は絶対に強盗などするはずがないと思つてゐる。しかし、ひどく腹がへつて、お金も全くない場合を想像してみよう。ふと通りすがりの人をおどして金を奪ふことが起るかもしれない。その可能性が全くないと断言出来るだらうか。また自分は女性を犯すことは絶対にありえないと思つてゐる人でも、美しい女性に出会ふと、心の中で犯してはゐないだらうか。それは「心の中た」と弁解しても、犯してゐることはたしかである。
つまり親鸞が指摘してゐるのは、外部にあらはれた罪だけでなく、心の中で犯した罪あるひは罪を犯す可能性である。それほど人間の心は不安定であり、危険な要素にみちてゐるといふことだ。その他、人をおとしいれたり、嘘を言つたり、我々は、毎日何かしら悪におちいつてゐないだらうか。それを反省し、救い難い自己の悪人性を自覚し、ただひたすら仏の力にたよるやうな人こそ、仏の願ひに近いと言つてゐるのである。

ところでこれと逆の場合がある。自分は善人だと堅く思ひこんでゐる人がある。貧しい人にはめぐみを施し、決して嘘は言はず、誰からも道徳的で立派な人だと思はれ、自分でもひそかに誇つてゐるが、しかしその人は果して善人だらうか。
自分は善人だろうかと疑つてゐる人はまだいい方だ。世の中には、自分の善い行ひを自慢する人がある。善人を看板にしてゐる人もある。また自分はこれだけいいことをしたから、必ず神や仏の報いがあり、救はれるだらうと思つてゐる人もある。親鸞は、かうした態度一切を否定したのである。むろん善い行ひを否定したわけではないが、そこに生じやすいうぬぼれ、またそこにひそむ偽善に対して、鋭い批判をこころみた。人間の「はからひ」(けいさん)の空しさを自覚した人の言葉としてうけとるべきであらう。

しかし、悪人の自覚を深め、また或る場合は悪事をしても、心から悔い改めたから、自分は救はれるにちがひないと、逆に自分で計算したらどうであろうか。悪人ほど救はれるなら、ひとつ悪いことをしてやれといつた人間が、親鸞の時代にも出た。彼はさういふ態度をも強く否定した。この双方を戒めたのである。どちらも人間のさかしらな打算にすぎないではないか。人間の空想にすぎない。そんな自己分別は全部やめて、もつと自然に行為すべきではないか。
悪人の自覚とは、悪人ぶることでもなく、救ひを打算することでもない。自分の心の中に巣くふ情欲や物欲のあさましさをみつめて、けんそんになることだ。どんなに隠しても、仏の眼によつて見られてゐる自己を、そのままその前に投げ出して祈れと言つてゐるのである。人間はすべて罪の可能性を抱いたまま生きてゐる危険な存在であるからだ。