2/3「〈こころ〉とは何か - 中島義道」ちくま文庫 哲学者とは何か から

2/3「〈こころ〉とは何か - 中島義道ちくま文庫 哲学者とは何か から

「心身問題」の核心


しかし、たとえこうした人間的な感情をもったコンピュータが開発されたとしても「心身問題」は一[ひと]かけらも解決されたことにはならない。〈こころ〉の不思議さはまずもって、自分の〈こころ〉のあり方の不思議さに向けられるからです。他人の〈こころ〉は - 将来開発されるかもしれない感情的コンピュータを含めて - 世界に幾十億とあるけれど、自分の〈こころ〉だけは特別のあり方をしている。この世界にまたとないあり方こそ、物質のあり方とはまったく違うものなのです。
ですから、もし自分の〈こころ〉という特権的あり方を排除してしまえば、「心身問題」はたちまち雲散霧消してしまう。自分の脳の中には物質しかないのに、なぜ自分は考えたり・感じたり・判断したりできるのだろうか、という素朴な問いこそ、「心身問題」の核心なのです。自分の〈こころ〉を端的に感じない人はいないでしょう。今、あなたは「この中島という奴はつまらないことばかり言っているなあ」と考えたとしますと、その「考えている」というあり方は、けっして物質的なあり方ではない。同時にボワァーと頭の中に何やら不快感が感じられるかもしれませんが、その「感じ」もやはり物質的なあり方ではありません。とらえどころがないが、あなたがたしかにつかんでいるそのものこそ〈こころ〉なのです。
哲学に執着する人とは、なによりも自分に執着する人です。世界にひとつしかない(一人しかいない)自分というこの独特のあり方が不思議で不思議で仕方かない人です。ですが、どうも大脳生理学者・精神医学者・心理学者などの科学者はそうではないらしい。謙虚と言ったらよいのか、鈍感と言ったらよいのか、自分を他人と同様に冷静に見ていて、自分の〈こころ〉と他人の〈こころ〉とはこんなにあり方が違うのに、〈こころ〉を一般的に探求してそこに不都合を感じない。彼らの関心は〈こころ〉の内容ではなくその表出と解釈に限られ、しかも自分の〈こころ〉は棚に上げているのですから、〈こころ〉とは、そこに何ごとかをインプットすれば、別の何ごとかがアウトプットされるブラック・ボックスにほかなりません。
ですから、こうした科学者はごくドライに〈こころ〉という言葉を使う。まず〈こころ〉は安易に「因果関係」と結合して、原因になったり結果になったりします。単純なところでは、「右手を上げる意志」は「右手が上がること」の原因である、とみなされる。もう少し複雑になれば、ストレスが胃潰瘍やハゲの原因であることになり、末期ガンの患者に対して「最後は本人の生きようとする意志です」と多くの医者は宣言します。「お子さんの吃音は、なんらかの欲求不満でしょう」と児童心理学者はお母さんを説得しています。逆に、〈こころ〉は結果ともなる。犯罪心理学者は「この犯人の残忍性はその育った劣悪な環境のせいです」とか、精神病理学者は「彼女の狂気は恋人が死んだショックのせいでせ」などとシャーシャーと宣言するのです。

 

誰(何)が判断しているのか

こうした断定がいちがいに間違っているわけではありません。ここには、あるきわめてドライな因果了解が成立しているのですから。つまり、原因を「それを除去すれば結果が生じなくなるもの」という条件関係として了解しているのです。だから、それを除去すれば胃潰瘍が治癒するようなもの(すなわちストレス)が、その病気の原因なのです。
これで何が不足だ、と言われるかもしれない。しかし、この因果了解は因果関係の核心的意味をすくい上げていない。それは、原因と結果を「引き起こす」ものだという意味、言い換えれば、原因とは結果を引き起こす「力」をもつものだ、という意味です。
たしかに、ストレスがなければ胃潰瘍は生じなかったと言えるかもしれない。しかし、そのストレスが「どのようにして」胃に穴を開けていったのでしょうか?ストレスは電気パルスやホルモン分泌のような物質的作用ではありませんから、それが胃潰瘍を「引き起こす力」をもっているとしても、それはどのような「力」なのか、皆目わかりません。
別の言い方をしてみましょう。私の眼前に真っ赤なリンゴを見ている。それを「青くない」と私は判断できますが、赤い光は瞳孔に入っても、「青くない」という光は入ってきません。心理学の教科書にあるように電磁波が瞳孔を経由して電気パルスに変わり、どんどんどんどん視覚中枢目指して伝達されることをすべて認めたとしましょう。しかし、この一定の刺激に対する「青くない」という判断はどこでどのようにして生まれるのでしょうか。それは、明らかに物理的刺激の中には含まれていないのですから。
これに対して、判断中枢や言語中枢をもってきて、お役所のように次々に書類を回して「赤」を「青くない」に変える場所Xを求めることはできましょう。しかし、その判断中枢においてもやはり判断に対応した物質状態が認められるだけであり、物質である脳が判断するわけはない。誰が判断しているのか。私の〈こころ〉が判断しているのだ、と言わざるをえないのではないでしょうか。