1/2「消費する自我 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

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1/2「消費する自我 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

自己顕示と消費

ところで、消費社会についての悲観論のもうひとつの根拠は、ボードリヤール氏によるまでもなく、人間には無限の自己顕示欲と、それにもとづく無限の競争欲がある、といふ前提である。それによれば、人間はたとひ自然な欲望が満足されても浪費をつづけ、たんに他人に差をつけるために、消費のための消費をあへてするものだ、いふのであった。この主張は、一見、われわれが消費の概念を修正してもかたちを変へて生き残り、あらためて、消費社会のイメージに暗い影を投げかけるやうに見える。
すなわち、われわれの定義によって、かりに消費がものではなく、時間を消耗することだとしても、もしこの前提が正しければ、そこでは無意味な時間つぶしの競争が始まる、と考へられることになる。そして、その結果、人類はきりのない怠惰と耽美的な惑溺におちいり、社会生活に必要な最小限の効率性をも失ひかねない、といふ新しい憂慮が芽ばえるからである。
もちろん、この問題のひとつの答へは、すでに先の一節で触れたやうに、現代社会に見られる価値観の多様性と、そこから生じる競争の場の多様化といふ事実に求められるだろう。素朴な物質的欲望であれ、われわれのいふ「第二の欲望」であれ、現代ではその満足のかたちが急速な多様化を見せ、いはば、競争の目標が分散し始めてゐることは明らかである。消費者は、それぞれ自分自身の個性的な満足を探そうとしてをり、その分だけ、他人を羨んだり、逆に他人を羨ませる機会が減ってゐることは、疑ひない。そのことだけでも、われわれには一応、自己顕示欲が本質的に無意味な消費を刺戟し、宿命的に消費社会をゆがめるものだ、といふ先入見を疑ふことができよう。
だが、この先入見をもう少し深く分析すると、われわれは、その前提となってゐる誤解の根がきはめて深く、人間心理についての基礎的な認識の不用意にもとづいてゐる、ていふことに気づくのである。それは、またしても、消費と欲望の心理の不十分な観察から生じたものであるが、ゆるがせにできないのは、この誤解は深く、われわれの根本的な人間観を左右するものだからである。
端的にいへば、人間に自己顕示欲があるといふ現象の指摘は正しいとしても、それが人間存在にとって永遠の本質であるとか、まして、それが無限に拡張する宿命を持ってゐるなどといふのは、証明されていない仮説にすぎない。それは、あのニーチェ的な、無限の力への憧憬と同じく一種の神話であって、さらに疑ふなら、人間の「自我」に関する、西洋思想の伝統的な信仰にもとづいてゐる。それによれば、人間の自我は、まづ絶対に不可分な統一体であり、自分自身を完全に知ってゐる存在であって、さういふ存在として、他人とは越えがたい一線を介して対立するものだ、と考へられる。もしこの通念が正しいとすれば、たしかに、自我はみづからを完成するために他人から孤立し、みづからの存在を証明するために、たえず自分を他人よりも大きく、他人よりも力強いものとして感じつづけねばならないかもしれない。
しかし、かうした自我についての通念は疑はしく、さらに、その自他関係の理解が誤りだといふことは、皮肉なことに、自己顕示といふ行為そのものを観察しただけで、すでに半ばは明白だといへる。なぜなら、自己顕示はそれ自体きはめて矛盾した構造を持つ行為であって、一方では他人を圧倒しながら、他方ではあくまでも、他人の主体的な承認を仰がねばならない行為だからである。どんな権力や財力の誇示といへども、たとへば、それを見せる相手が完全な奴隷であっては、われわれの自己顕示の満足はなりたたない。どんな虚栄心の強い人間でも、三歳の幼児をあひてに、「見せびらかし」の満足を味はへるとは考へられない。われわれは他人の称賛や羨望を求めながらも、それ自体が他人の自由な判断にもとづき、むしろ、その人自身の自尊心にもかかはらずあたへられることを期待する。いひかへれば、われわれが自己顕示の喜びを覚えるとき、われわれの自我はその喜びそれ自体のなかで、無意識のうちに他人を自己と同等の地位に置き、その自由と主体性を認めてゐるのである。

 

他人をうちに含んだ自我

このことは、それだけでも、すでに自我の成立そのものが他人の存在を必要とする、といふ事実を暗示してゐるが、これは、われわれのこれまでの欲望の分析を再確認すると、さらによく理解することができる。すなはち、われわれの見たところでは、人間の自我はその欲望に関してはけっして不可分の統一体ではなく、それどころか、はっきりと二つの層に分裂してゐるのがその本質的な性格であった。人間の欲望は、いはば、あひ反する方向をめざす二つの衝動からなりたってをり、その満足は、両者の拮抗と相互作用のうちに成立するといってよい。
この二つの衝動を、われわれは先に、かりに物質的欲望と精神的欲望と呼んだのであるが、より正確には、それぞれたんに、満足を急ぐ欲望と満足を引きのばす欲望、と呼んだ方がよいのかもしれない。たとへば、性的欲望のやうに、単純には物質的とも精神的ともいへない欲望のなかにも、また、娯楽小説を読むときのやうな、普通には精神的と見られる楽しみのなかにも、やはり、この二つの正反対の方向を持つ欲望がからみあってゐるからである。
ところで、この第一の欲望と第二の欲望とは、さらに仔細に見ると、たんに対立しあってゐるのではなく、われわれの内部で第二の欲望が第一の欲望を観察し、その満足ぶりを確認するといふ関係にあることがわかる。いひかえれば、第二の欲望はたんに満足を引きのばすだけではなく、引きのばすことによって、現に満足しつつある第一の欲望の姿を拡大し、それが満足してゐることを十分に感じとってみづからの満足にしてゐる、と見ることができる。じっさい、われわれがものを深く味はふ、あるいは、喜びを噛みしめる、といふときに行なってゐることを反省すれば、この二つの欲望の相互関係は容易に理解できるであらう。そのとき、われわれは、たんにものの味を感じてゐるだけではなく、それを味はってゐる自分自身を感じてゐるのであって、そこには一人ではなく、二人の自分の満足が重なりあってゐるといへる。けだし、われわれにとって、満足を引きのばすことがけっして苦痛ではなく、かへって楽しみを強めることになるのは、それが満足の確認といふ作用を含むからなのである。
ことのことをいひかへるなら、個々の人間が欲望の十分な満足を味はふとき、彼はつねに自分の内部にひとりの「他人」を生みだし、その眼に眺められることによって満足を確実なものにしてゐる、と説明することができる。いふまでもなく、この「他人」はわれわれの自我の一部なのであって、当然、それは威圧したり競争したりする相手ではなく、われわれが全面的な信頼を寄せることのできる相手である。このやうに見ると、少なくとも、ひとが消費といふ行為にかかはるかぎり、彼の自我は本質的に他人をうちに含んで成立するものであり、しかも、他人との調和的な関係を含んで成立するものだ、といはなければなるまい。