2/2「消費する自我 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

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2/2「消費する自我 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

消費の社交性

そして、もし、消費する自我がかうした構造を持つものだとすれば、やがて、それが消費の場所においても現実の他人を必要とし、その他人による賛同を求めることになるのは、自然ななりゆきであろう。じつは、満足を引きのばし、それを確認するのは孤独で不安な仕事であって、自我の内部の「他人」は、この仕事を自分ひとりで進めるのは心もとないからである。
そもそも、満足を急ぐこととは違って、それを引きのばすことには、生理能力や消費物の量といふ外的な制限もなく、またそのやり方についても、効率性といふ客観的な規則がありえない。ものの消耗といふ点からいへば、それはあへて余分な行為をすることであるが、余分なことをする以上、その仕方や程度については、われわれが自分でまったく自由に決めなければならない。現実には、食卓の作法に見られるやうに、この仕事は、ものを消費する行動に様式的な折り目をあたへ、趣味的な遊びを加へるかたちで行なはれるが、そのこと自体、ひとりで行なふのはけっして簡単な仕事ではない。一般に、人間の行動の様式が何であり、それがどのやうにして作られるかは、ここで詳しく述べる余地はないが、しかし、少なくとも疑ひないのは、それが密室の孤独な個人によって維持されるのは難しい、といふ事実であらう。
日ごろ、しばしば経験することではあるが、たとへば、われわれがひとりきりで食事をする場合、満足を引きのばす欲望は、容易に満足を急ぐ欲望に押しきられて作法の落着きを失ってしまふ。動作は粗野になるか、あるいはかたちばかりの様式に固執することになり、いずれにせよ、安定したいきいきしたリズムを失ってしまふ。さうした有機的なリズムのなかでこそ、われわれは満足してゐる自分自身を十分に実感しうるのであるが、そのためには、われわれの内部の「他人」は、外側の現実の他人の眼を必要とするのである。
このことはまた、人間が古来、なぜが酒宴や園遊や喫茶の会を好み、社交の場で、いひかへれば、共同の場所でものを消費することを好む、といふ奇妙な習性の説明にもなるだろう。これが奇妙だといふのは、共同作業による生産とは違って、共同の消費にはなんらの合理的な利点もないばかりか、むしろ、純粋な物質的快楽を味はふうえでは妨げとなる、とさへ考へられるからである。にもかかはらず、われわれが他人と快楽をともにするのは、さうすることによって、たがひに楽しんでゐる自分の姿を確認しあふことができ、また、たがひに調子をあはせることによって、消費行動のリズムを一定に保つことができるからであらう。

 

不安の徴候としての自己顕示

いひかへれば、われわれの第二の欲望、自我の内部の「他人」は、じつは自分自身を十分に知らない存在なのであり、消費をどのやうに楽しみ、どの程度に楽しめばよいかについて、ひとりでは確信を持ちえない存在だといへよう。この点でも、人間の自我についての西洋的な通念は不正確なのであって、少なくとも欲望の満足にかかはるかぎり、自我は最初から他人と共存し、その賛同を得てはじめて自分自身を知りうる存在だ、と見るべきであらう。
そして、このやうに考へたとき、われわれは、消費における自己顕示がひとつの病的な徴候にほかならず、自我の力の誇示ではなくて、むしろ弱さと不安の表現であることを理解することができる。要するに、それは、消費する自我が他人の賛同の眼を求めながら、それを手に入れたといふ自信を持つことができず、不安のあまり、不自然に身ぶりを大きくしてゐる姿にほかならない。そのとき、自我が探してゐるのは、身近にある具体的な他人の表情であり、小さな目配せにも敏感に答へてくれる他人の眼であるのに、それが見えないとすれば、表現が不必要に誇張されることになるのは当然であらう。顔の見えない他人をまへに、ひとはいやがうへにも自分の満足ぶりを見せびらかし、他人の賛同が得られなければせめてその怨恨を買ってでも、なんとかして、不確かな自分の満足を確かめたいとあせる。
この不幸な状態は、あたかも、劇場でひとつの感情を表現しようとする俳優が、突然、顔の見える観客の反応を失って、孤立無援の演技をしひられた状態にたとへることができる。彼が見失ふのは、たんに外部の観客ではなく、彼が表現しようとする内部の感情そのものであって、それをむりにも確実に感じようとすれば、表現のための動作はおのづから誇張されることになるであらう。そして、前章で述べたやうに、ヴェブレンやリースマン教授が見てゐたのは、まさに個人の顔の見える隣人を失った社会であって、誰もが巨大な世界のなかで、虚空に向かって満足を演じなければならない社会であった。
それは、産業化の末期に現はれた巨大情報媒体[マス・メディア]の誕生期であり、報道される抽象的な「世間」の姿のまへに、個人が具体的な隣人の眼への信頼を失った時代であった。「見せびらかしの消費」とは、さういふ独特の歴史的な状況のなかで、しかも、おそらくは伝統的な自我の通念に縛られたひとびとが、不安のあまりに演じた観客なき演技にほかならなかった。その意味で、われわれが予感しつつある消費社会の到来は、ひとつの社会構造の変化を伴ふとともに、人間の自我について、小さからぬ思想史的な変化をもたらすはずなのである。