1/4「「小鯵の塩焼、里芋田楽、味甚佳し」-淡白な食生活 - 川本三郎」岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

 

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1/4「「小鯵の塩焼、里芋田楽、味甚佳し」-淡白な食生活 - 川本三郎岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

荷風が晩年、市川市の自宅近く、京成八幡駅前の大黒家で毎日のようにカツ丼を食べたことはよく知られている。死の直前の昭和三十四年三月の「日乗」には頻繁に「正午大黒家」の記述が見られる。酒一本にカツ丼と上新香が決まったメニューだったという。
荷風にはひとつの店が気に入ると、そこにずっと通いつづけるという傾向がある。山形ホテルはじめ、銀座の銀座食堂、新橋の料理屋金兵衛、浅草の洋食屋アリゾナといった名前がすぐ思い浮かぶ。いったん気に入ると何回も通い続ける。大黒家もそうしたお気に入りの店だったわけだが、毎日のようにここで昼にカツ丼を食べていたという事実は、荷風の食生活、食べものの好みを知るうえで興味深い。
カツ丼は決して贅沢な食べものではない。しかも、家の近くにある、どこにでもあるような普通の食堂でのカツ丼である。そこに毎日のように通う。そういう荷風は、美食家とは思えない。むしろ逆で、食べることにさぼど情熱を持たなかったのではないか。だから毎日のようにカツ丼を食べていたのではないか。荷風にとってカツ丼とは、「おいしい食べもの」というより、「滋養のある食べもの」だったのだろう。おいしいから食べるという以上に、肉とご飯が一緒になったものを食べていれば滋養がとれると考えていたためだろう。荷風なりの合理主義である。
野口武彦は、荷風谷崎潤一郎をその食べものへのこだわりから対比的に論じた「作家と味覚 牡丹鱧とカツ丼のはざま」(「国文学」昭和五十九年三月号)のなかで、美食家の谷崎に対して荷風は食べものへの執着が薄かった、味覚が淡白だったと指摘している。たとえば、「ふらんす物語」には、あの食の国に暮しながら、全編を通じて、何々を食べたという料理の品目がほとんど書かれていない。それはひとつの特色として見るに価する。「荷風は女にはいくらでも金をかけたが、食物にはそうしなかったのである」
実際、荷風の作品を読んでいて気がつくひとつの特色は、登場人物が贅沢なものを食べていないことである。むしろ、粗食といっていいほど、食べものにこだわっていない。
たとえば「おかめ笹」(大正七年)の冒頭、主人公の画工鵜崎巨石が富士見町の借家で、夕暮れどき、外出前に妻に食事の仕度を頼むくだりである。
夫婦のあいだでこんなやりとりがある。
「あいにく今日はまだ何にも買つて御座いませんけれど」(略)
「昼食べた里芋が残つてゐるだらう。鮭ももうないのか。」
「腐りやしないかと思ひましていただいてしまひました。」
「新芋はお前まだ高いんだぜ。御料理屋で使ふ位だよ。無闇にお前の惣菜にされちやたまらん。」
「玉子と摘菜が御座いますから御したしにでも......。」
(略)「何でもいい。早いものがいい。」
里芋、鮭、玉子、摘菜......ご馳走とは思えない。しかも主人公は「何でもいい。早いものがいい」と、食事の内容よりも、早く食事をすますことのほうに心がいっている。美食家にはほど遠い。

「濹東綺譚」(昭和十二年)のお雪が食べているものも、粗食に近い。「わたくし」がはじめてお雪の家に上がったとき、彼女は「ゆつくりしてゐらつしやい。わたし、今の中に御飯たべてしまうから」と、ひとりで簡単な食事をはじめる。その内容は、と見ると-。
「女は茶棚の中から沢庵漬を山盛りにした小皿と、茶漬茶碗と、それからアルミの小鍋を出して、鳥渡[ちよつと]蓋をあけて匂をかぎ、長火鉢の上に載せるのを、何かと見れば薩摩芋の煮たのである」
沢庵と薩摩芋の煮たものを菜に、さらさらと茶漬を二杯ばかり食べる。日本髪のお雪に茶漬と沢庵は似合わないことはないが、なんともあっさりした食事である。しかも、彼女は、「おかめ笹」の主人公と同じように、食事を楽しむことよりも、早く食事をすませることのほうに心がいっている。食べものの好みなどどうでもいい。お腹がふくれればそれでいいという食べ方である。
「女は茶漬を二杯ばかり。何やらはしやいだ調子で、ちやらちやらと茶碗の中で箸をゆすぎ、さも急[いそが]しさうに皿小鉢を手早く茶棚にしまひながらも、顎[おとがい]を動して込上げる沢庵漬のおくびを押へつけてゐる」
場末の私娼の慎ましい暮しがよく出てはいるのだが、もう少しお雪においしいものを食べさせてやることはできなかったか。
しかし、荷風にとっては、茶漬は必ずしも粗食ではなかったのかもしれない。むしろ私娼が茶漬をさらさらとかきこむ姿に、そこはかとない情緒を感じたのだろう。「わたくし」はあとで、「お雪さん」が、飯櫃[おはち]を抱きかかえるようにして飯をよそい、さらさら音を立てて茶漬をかきこむ姿を懐しく思い出すほどである。荷風の零落趣味、陋巷趣味にはむしろ質素な食事のほうが合ったのだろう。