2/4「「小鯵の塩焼、里芋田楽、味甚佳し」-淡白な食生活 - 川本三郎」岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

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2/4「「小鯵の塩焼、里芋田楽、味甚佳し」-淡白な食生活 - 川本三郎岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

断腸亭日乗」にも実は、食事の記述は思いのほか少ない。食事をしたことは書いてあるが、どんなものを食べたかの詳しい記述がない。あれだけ山形ホテルや、カフェー・タイガーに通って食事をしていながら、その日何を食べたのかの記述はまったくない。このことからも、荷風が食べることに谷崎のような情熱を持たなかったことがわかる。
「女中のはなし」(昭和十三年)には荷風自身を思わせる先生が出てくるが、彼の朝の食事は、「焼パンとコーヒーと、西洋独活[うど]の罐詰」とごく簡単なものである。これなど、荷風が洋風の朝食を好んだからというよりも、一人暮しの身には、ご飯を炊いたり、味噌汁を作ったりするより、パンとコーヒーと「西洋独活」(アスパラガス)のほうが簡単だからという理由からだろう。ここでも荷風は、食に関しては、快楽主義者というよりは、合理主義者。 「ひかげの花」(昭和九年)の芝桜川町の裏通りにすむ私娼お千代の朝の食事はせいぜい牛乳か卵で、それさえ抜きにしてしまうこともある。「つゆのあとさき」(昭和六年)の山の手の夫人鶴子でさえ、朝食は、毎朝牛乳にトースト。「鶴子は毎朝一人で牛乳に焼麺麭を朝飯に代へ」という文章から、彼女が、きちんとした朝食を作るのが面倒だから、牛乳とトーストですませていることがわかる。料理に手をかけることなどしない。腹がふくれればそれでいいという淡白な態度である。
晩年、荷風は、親しい知人相磯凌霜[あいそりようそう]との対談『荷風思出草』のなかで、いちばん好きな食べものはなにか、と聞かれ「そういわれても、特別にこうというものは、どうもないな」と答えている。食べることにこだわらなかった荷風らしい。
断腸亭日乗」には、それでも、食べものの記述がいくつかある。といっても贅沢な食べものではない。それを読むとむしろ、荷風が食べものに関しては淡白だったことがはっきりしてくるような、さほど変哲のない食べものである。
戦時中から終戦直後の食料不足の時代のものは割愛して、「日乗」から荷風の通常の食生活を見てみよう。
家にいるときは、朝は、パンが多い。
大正八年一月一日、「曇りて寒き日なり。九時頃目覚めて床の内にて一碗のシヨコラを啜り、一片のクロワサンを食し、昨夜読残の疑雨集をよむ」
ショコラは銀座の三浦屋でフランス製のものを、クロワッサンは尾張町ヴィエナカッフェーというアメリカ人の店で買うという。当時の日本人の食生活から見ればハイカラだが、同時に、このフランス風食事は、前述したような一人暮しの身には手間のかからないものだったのだろう。
朝にショコラを飲むことはこのころからの習慣になったようで、昭和二年一月一日には、「快晴、九時頃に夢より覚めたり、直に枕頭の瓦斯炉に火を点じシヨコラを煮る、これを啜りて朝餉に代ること、築地僑居以来十年間変ることなし」とある。さらに昭和七年三月十一日にも、「枕頭の瓦斯炉にてシヨコラを煮る時、窓の外なる椎の梢に鶯来りて鳴く」と、朝のショコラが偏奇館の生活になじんで来て、偏奇館の象徴ともいうべき庭の椎の木で鳴いている鶯と調和している姿が描かれる。

とはいえ、荷風がほんとうに好んだのは、洋風のものより、和風のものだった。油っこいものより、さっぱりしたものだった。晩年の市川、大黒家のカツ丼のイメージが強いために、荷風は洋食ばかり食べていたような印象があるが、「日乗」に出てくる料理を見ると、逆に和食のほうが多い。それも手のこんだ料亭の料理というより、どちらかといえば惣菜的な何気ないものが多い。
試みに「日乗」に登場する料理の品目をざっと挙げてみると-。
蛤の吸物、蜆の味噌汁、胡瓜もみ、ずいきぜんまいの煮付、章魚[たこ]の甘煮、塩鱈の煮付、玉子焼に茶漬飯、鱸[すずき]のフライ、蓮と筍の甘煮、鮎の塩焼、あなごの蒲焼、鱧の蒲焼、玉子雑炊、蜆汁、アイナメの照焼、たけのこご飯、といったところ。
いずれも昭和初年の記述である。好んで通った銀座の銀座食堂と新橋の金兵衛で食べたものが多い。山形ホテルに通って洋風の食事をしていたころに比べると、好みはずっと日本的なものに変っている。風月堂で舌平目のフライやマカロニを食べたり、オリムピックでオートミイルなど食べることもあるが、五十歳になろうとするころから好みは徐々に和食に変っている。大正十四年十月二十二日には、風月堂で食事をしたが、震災後料理人が変ったのか、料理が以前のようにおいしくなかった。この日、「牛肉のパティ一皿」を食べたが「滋味に乏し」と書いている。これは、風月堂の味が落ちたというより、荷風の好みが、和風へ変ったためだろう。