3/4「「小鯵の塩焼、里芋田楽、味甚佳し」-淡白な食生活 - 川本三郎」岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

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3/4「「小鯵の塩焼、里芋田楽、味甚佳し」-淡白な食生活 - 川本三郎岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

銀座の銀座食堂や、新橋の金兵衛といった決して名のある料理屋ではないところで、なんでもない和風の食べものを食べては「美味なり」と感激する。その点では、安上がりである。
「?時お歌来る、昏黒相携へて銀座に出で銀座食堂にはん[難漢字]す、蛤の吸物味甚佳なり」(昭和四年一月十日)、「黄昏お歌来る、倶に銀座に往き銀座食堂に飯す、蜆の味噌汁味殊に佳なり」(同年三月三十一日)、「晩間銀座食堂にはん[難漢字]す、章魚の甘煮味佳なり」(昭和六年十一月十二日)、「燈刻銀座に往き銀座食堂にはん[難漢字]す。アイナメの照焼味佳し」(昭和十年四月十四日)
蜆の味噌汁や章魚の甘煮やアイナメの照焼をうまい、おいしい、といっているのだから荷風の味覚は庶民的である。「ひかげの花」の重吉が、昼飯の残りを蒸しかえし、てっか味噌と焼海苔で、ひとり夕食を食べる姿には、この時期の荷風の食生活が、いくぶんか反映されているのだろう。
「昏暮雨の小降りを窺ひ金兵衛に至りて例の如く玉子雑炊に青刀魚を食す」(昭和九年十月六日)、「日暮れて後雨?む。銀座に往き蕎麦屋よし田にて茶漬飯と饂麺を食してかへる」(同年十月十七日)(ちやみに銀座のよし田は現在も健在)、「芝口佃茂に夕★げを食す。土用蜆味正に佳し」(昭和十二年七月三十一日)(佃茂とは、金兵衛のこと)、「浅草に至り丸屋にはん[難漢字]す。鱚の塩焼味佳なり」(昭和十三年九月二十七日)
玉子雑炊とサンマ、茶漬けうどん、シジミ、キスの塩焼と荷風の食事はあくまで質素だ。昭和三年二月三日に、新橋の玉木屋の佃煮がうまいと激賞しているのも荷風らしい。
「阿歌芝口玉木屋の味噌佃煮を購ひ来る、余十年前築地に仮住居せし頃には日々玉木屋の煮豆味噌などを好みて食しぬ、是日たまたま重ねて是を口にするに、その味十年前と更に異る所なし、玉木屋はさすがに江戸以来の老舗なる哉、何年たちても店の品物を粗悪になさざるは当今の如き世に在りては誠に感ずべきことなり」
玉木屋は現在も新橋に健在の老舗だが、それにしても佃煮ひとつにこれだけ感激するのは、美食派にはほど遠い荷風ならではといえようか。

美食家の谷崎潤一郎が、こういう荷風の食生活を見たらはたして何といっただろう。よく知られているように谷崎は、関東大震災のあと関西に行き、そこで上方料理に目覚めた。いったん上方料理の贅沢なおいしさを知ると、それまで東京で食べていたものが急にみすぼらしく見えてきた。そこでさかんに東京の食べものの悪口を書いた。
たとえば大正十三年に書かれた「上方の食ひもの」という随筆では、京都や大阪の食べものや酒を激賞したあとで「僕思ふに、元来東京と云ふ所は食ひ物のまづい所なのだ。純粋の日本料理は上方に発達したので、江戸前の料理はその実田舎料理なのだ」と、東京の食べものを酷評する。荷風があなごの蒲焼や鱧の蒲焼をおいしい、美味なりといって喜んで食べていた昭和九年に書かれた「東京をおもふ」のなかでは、東京の人間は哀れなものを食べていると、鮒の雀焼、塩鮭、塩鱈、佃煮、タタミイワシ、クサヤなどの名をあげている。塩鱈の煮付をおいしいといっている荷風など、谷崎から見れば、まったくの味覚音痴に見えたことだろう。他方、鱧の蒲焼がおいしいといっている荷風は、おそらく、晩年の谷崎が好んだという、牡丹鱧など格別おいしいと思わなかっただろう。ちなみに「牡丹鱧」とは、谷崎潤一郎「過酸化マンガン水の夢」(昭和三十年)によれば「鱧の肉を葛にて煮、それに椎茸と青い物を浮かした辻留得意の吸物碗にて、日本料理の澄まし汁としては相当濃厚で芳潤な感じのものなり」とある、「辻留」とは、東京大丸地下にあった懐石料理の老舗。荷風が通った銀座食堂や金兵衛とは格が違う。谷崎と荷風の味覚へのこだわりの差である。

万事に質素だった荷風にとって唯一の贅沢は甘いものだろうか。荷風は酒も飲んだがどちらかといえば、甘党である。小説「花瓶[はないけ]」(大正五年)にはこんな場面がある。
築地明石町に住む日本画家の燕雨が、小石川の高台に住む友人の高等遊民政吉を訪ねる。手みやげは、椿餅(道明寺)である。政吉の妻お房は、それを見て「まア有難う御座いました。宅ではもう大の好物なんで御座いますよ」と喜ぶ。下町に比べ、山の手のこのあたりには「気のきいたものはない」といって下町暮しの燕雨を羨む。やがて早稲田あたりの植木屋まで散歩に出かけていた主人の政吉が戻ってくる。
「『あなた、お礼を仰有つて下さい。頂戴いたしたんですよ。』とお房が支那焼の深い黄い菓子鉢に椿の若葉でくるんだ道明寺の菓子を入れて出した。
『これはこれは私の大好物だ。早速頂きませう。』と政吉は懐中の紙入から小菊半紙を一枚膝の上に敷延べ象牙の箸で椿餅を挟み取り、『お房お茶を入替へてくれ』」
いかにも甘党の荷風らしい名場面である。とはいえここでも荷風は慎ましい。決して贅沢なものは求めない。「日乗」のなかでよく登場する甘いものは、せいぜい汁粉である。「(カフェー・タイガーの)二女を伴ひ汁粉屋梅月に憩ひ」(昭和二年一月八日)、「南鍋町の汁粉屋梅林に立寄る」(昭和八年三月十六日)、「柳屋にて汁粉を食してかへる」(同年十二月十三日)。梅月、梅林、柳屋、いずれも銀座から新橋にかけての庶民的な汁粉屋である。
太平洋戦争がはじまり、物資窮乏の世になると甘いものがなかなか手に入らない。だから羊羮などを人からもらうと、日記に書きしるす。
昭和十七年二月二日、「金兵衛にて歌川氏より羊羮を貰ふ。甘き物くれる人ほどありがたきはなし」
荷風は戦後、「羊羮」という短篇を書いている(昭和二十二年)。銀座裏の小料理屋で見習いとして働いていた若い男が戦後、闇でもうけ、得意になって市川の八幡に引っこんだ主人の家を訪ねる。しかし、主人の家は案外、食べものに不自由していない。鯵の塩焼、茗荷の落し玉子の吸物、茄子の煮付、白瓜の漬物。しかも飯は白米。拍子抜けした男は、帰りに京成電車八幡駅前の露店で羊羮を買う。そんな話である。こんなところにも荷風の甘党ぶりが出ている。
野口武彦が指摘しているように、荷風と谷崎は、女性に対する態度が違っていたのと同じように、食べることの情熱の度合いがまったく違っていた。荷風が、食べることに淡白だったのは、生来、腸が弱かったという体質的な理由もあっただろうが、それ以上に、彼が、山の手の堅実な家庭の子だったことも影響していると思う。蕩児に見えながらも、荷風の基本は、作品世界も生活態度もストイシズムにあり(女性に対しても彼は、実に、ストイックに距離を取り続けた)、それが、食べるという快楽への惑溺を抑制したのである。そこにさらに、彼の、零落趣味、陋巷趣味が加わって、食への耽溺にはついに向かうことはなかった。
荷風にとっては、茶漬をさらさらとかきこんでいるお雪こそが、はかなく美しく見えた。あっさりとした、慎ましい食事をするお雪こそが夢の女になった。