4/4「「小鯵の塩焼、里芋田楽、味甚佳し」-淡白な食生活 - 川本三郎」岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

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4/4「「小鯵の塩焼、里芋田楽、味甚佳し」-淡白な食生活 - 川本三郎岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

戦前、荷風がよく通った店に芝口(現在の新橋駅の銀座寄り)の金兵衛がある。和風の小料理屋である。昭和九年十月六日では、「一膳飯屋」と呼んでいる。決して贅沢な店ではなかったのだろう。
昭和八年八月四日に「夜銀座にて高橋邦竹下万本の三子と逢ひ芝口の金兵衛に飲む」とはじめて登場してから、昭和十八年末まで、荷風はこの店をひいきにした。正月も開いていたので、単身者の荷風には便がよかった。
昭和十三年一月一日、「日暮れて後浅草公園を歩む。群集織るがごとし。芝口金兵衛にて夕食を喫して帰る」
昭和十五年九月二十六日、「燈刻芝口の金兵衛に至りて夕食を喫す。小鯵の塩焼、里芋の田楽、味甚佳し。この店にては仙台より精白米を取寄する由、久振りにて茶漬飯を食し得たり」
店の人間とも次第に親しくなったのだろう、昭和九年十月六日には、内儀に頼まれて色紙に雑句を書いて渡している。「青刀魚焼く烟や露地のつゆ時雨」「秋風や鯵焼く塩のこげ加減」などいかにも「一膳飯屋」の様子がうかがえる。
昭和十七年の三月二十八日、荷風は、その日に金兵衛で食べたものが悪かったのか腹痛を起した。それを伝え聞いた金兵衛
の内儀は、三十一日に荷風を見舞った。それに感激して荷風は、次のように記した。
「午後金兵衛のかみさん料理番同伴にて病気見舞に来る。?し廿八日の晩同店にて夕★げを食せし時吸物の中にとうがんの入れありしが其為苦味甚しきをを一口飲みたれど如何ともすること能はず其まま飲みほしたり。其夜十二時頃より俄に腹痛下痢を催したり。此事いつか金兵衛方へも知れしが故わざわざ見舞に来りしなり。かみさんの実意今の世には珍しと謂ふべし」
内儀の誠意ある応接に感じるところがあったのだろう、荷風はいよいよ金兵衛に通うようになる。「金兵衛に夕★げを食すること毎夜の如し」(昭和十七年四月三日)
昭和十四、五年ころに、この金兵衛によく通ったという作家の丸岡明は「随筆永井荷風」に、こんな思い出を書いている(『港の風景』三月書房、昭和四十三年)
「(金兵衛に)永井荷風が毎晩のように来ていることは、かみさんの口から訊いて知っていた。いまさっきまで、そこにおいででしたよと言ってくれたいすのだった。しかし私は、尊敬する大先輩と、偶然にしろ、こんな店で落合うようなことを好まなかったので、残念だと思うよりも、たすかったと思う気持の方が強かった。二階に小さな部屋が、ひと間かふた間あり、階下は鍵型になった土間にテーブルと小椅子の並んだ店だったから、もし落合うようなことがあったら、私にもすぐ、隠棲の作家の姿が眼にとまったことだろう」
金兵衛の飾らない店の雰囲気が伝わってくる。

市川市八幡の大黒家と並んで晩年の荷風がよく通った店に浅草の洋食屋アリゾナがある(一時、営業をやめていたが、一九九七年以降、再開)。
昭和二十四年七月十二日、「晩間浅草。仲店東裏通の洋食屋アリゾナにて晩食を喫す。味思ひの外に悪からず価亦廉なり。スープ八拾円シチユー百五拾円」
以後、この店が気に入り、しばしば通うようになる。「日乗」には、このあと昭和三十四年一月二十八日まで、アリゾナで、主として昼食を取ったことが、「正午浅草。アリゾナに飯す」と簡潔に記されてゆく。
アリゾナの主人松本操の小文「荷風先生の椅子」(東宝現代劇「★墨東綺譚」公演パンフレット、昭和三十九年九月十日)によると、荷風はいつも判で押したように午前十一時半にやってくる。座る席は入った右のとっつきで、もしそこが空いていないといっぺん出直し、決して他の椅子には掛けない。「召上るものは最初、タンシチューとグラタン、それにお銚子が一本。これが三ヶ月ぐらい続きましたかしら?それから、今度はチキンとレバーの煮こみとカレー・ライス、そしてビールが一本。この献立がよほどお気に召したと見え、これは随分長い間続きました。カレー・ライスではおもしろいことがございます。ご飯の上へカレーをかけたのではいかにも大衆食堂の感じなので、カレーをポットに入れてお出ししたところ“面倒臭いよ”とおっしゃるので、またご飯の上へおかけして出しました」ここでも荷風の食生活はいたって簡素である。
外食が主の荷風だったが、晩年の荷風には、ひとつ得意料理があった。野菜まぜ御飯とでもいえばいいか、御飯のなかに、ダイコンやニンジンを刻んで入れ、一緒に炊く。終戦後の食糧難の時代に考えつかれたものらしい。
荷風思出草』のなかで、相磯凌霜に「御飯は前と同じようにダイコンやニンジンを刻んでたく、あれをかかさずやつているわけですね。あれは栄養にはよいでしよう?」と質問され、荷風は「御飯の中に野菜をたたきこめば、おかずを別に作らずにすむもの」とおおらかに答えている。食に情熱を持たない単身者らしいアイデアといえるだろう。荷風は一貫して合理主義者である。
そして、六十歳を過ぎた荷風がひとり、ダイコンやニンジンを刻んで野菜まぜ御飯を作っている図はどこか、のどかで風雅ですらある。美食にこだわることなく、淡々として質素な食事に満足している荷風は仙人のようでもある。