1/2「伝通院 - 永井荷風」日本の名随筆別巻94江戸 から

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1/2「伝通院 - 永井荷風」日本の名随筆別巻94江戸 から

吾々はいかにするともおのれの生れ落ちた浮世の片隅を忘れる事は出来まい。
もし其れが賑[にぎやか]な都会の中央であつたならば、吾々は無限の光栄に包まれ感謝の涙に其眼[そのめ]を曇らして、一国の繁華を代表する偉大の背景を打目戌[うちまも]るであらう。もし又其れが見る影もない痩村[やせむら]の端[はず]れであつたなら、吾々は却[かへ]つて底知れぬ懐しさと同時に悲しさ愛らしさを感ずるであらう。
進む時間は一瞬毎に記憶の甘さを添へて行く。私[わたし]は都会の北方[はくはう]を限る小石川の丘陵をば一年一年に恋ひしく思返す。
十二三の頃まで私は自分の生れ落ちた此の丘陵を去らなかつた。其頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払つて飯田町に家を借り、それから丁度日清戦争の始まる頃には更に一番町へ引移つた。今の大久保に地面を買はれたのはずつと後[のち]の事である。 私は飯田町や一番町や又は新しい大久保の家[いへ]から、何かの用事で小石川の高台を通り過る折にはまだ二十歳[はたち]にもならぬ学生の裏若い心の底にも、何[なに]とはなく、云はば興亡常なき支那の歴代史を通読した時のやうな淋しく物哀れに夢見る如き心持を覚えるのであつた。殊に自分が呱々[ここ]の声を上げた旧宅の門前を過ぎ、其の細密[こまか]い枝振りの一条[ひとすぢ]一条にまでちやんと見覚えのある植込の梢を越して屋敷の屋根を窺ひ見る時、私は父の名札の後に見知らぬ人の名が掲げられたばかりに、もう一足も門の中に進入[すすみい]る事ができなくなつたのかと思ふと、猶更にもう一度あの悪戯書[いたずらがき]で塗り尽された部屋の壁、其の窓下へ掘つた金魚の池なぞあらゆる稚時[おさなどき]の古跡が尋ねて見たく、現在其処に住んでゐる新しい主人の事を心憎く思はねばならなかつた。
私の住んでゐる時分から家は随分古かつた。それ故、間もなく新しい主人は門の塀まで改築してしまつた事を私は知つて居る。乃[すなは]ち私の稚時の古跡はもう影も形もなく此の浮世からは湮滅[いんめつ]してしまつたのだ......

 



寺院と称する大きな美術の製作は偉大な力を以て其の所在の土地に動し難い或る特色を生ぜしめる。巴里[パリ-]にノオトル・ダアムがある。浅草の観音堂がある。それと同じやうに、私の生れた小石川をは(少くとも私の心だけには)飽くまで小石川らしく思はせ、他の町から此の一区域を差別させるものはあの伝通院である。滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対[あひたい]して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院である。
伝通院の古刹[こさつ]は地勢から見ても小石川と云ふ高台の絶頂であり又中心点であらう。小石川の高台は其の源を関口の滝に発する江戸川に南側の麓を洗はせ、水道端[すいどうばた]から登る幾筋の急な坂によつて次第次第に伝通院の方へと高くなつて居る。東の方は本郷と相対して富坂をひかへ、北は氷川の森を望んで極楽水[ごくらくみず]へと下つて行き、西は丘陵の延長が鐘の音[ね]で名高い目白台から、忠臣蔵で知らぬものはない高田の馬場へと続いてゐる。
この地勢と同じやうに、私の幼い時の幸福なる記憶もこの伝通院の古刹を中心として、常に其の周囲を離れぬのである。
諸君は私が伝通院の焼失を聞いていかなる絶望に沈められたかを想像せらるるであらう。外国から帰つて来てまだ間もない頃の事確か十一月の曇つた寒い日であつた。ふと小石川の事を思出して、午後[ひるすぎ]に一人幾年間見なかつた伝通院を尋た事があつた。近所の町は見違へる程変つてゐたが古寺の境内ばかりは昔のままに残されてゐた。私は所定めず切貼した本堂の古障子が欄干の腐つた廊下に添うて、凡そ幾十枚と知れず淋しげに立連[たちつらな]つた有様を今もつてありありと眼に浮べる。何といふ不思議な縁であらう、本堂は其の日の夜、私が追憶の散歩から帰つてつかれて眠つた夢の中[うち]に、すつかり灰になつてしまつたのだ。
芝の増上寺の焼けたのも矢張其の頃の事だと私は記憶してゐる。
半年ほど過ぎてから、或は一年程過ぎてゐたかも知れぬ。私はその頃日記をつけてゐなかつたので確な事は覚えてゐない。或日再び小石川を散歩した。雨気[あまけ]を含んで重苦しい夕風が焼跡の石の間に生えた雑草の葉を吹きひるがへしてゐるのを見た。

何しろあれだけ大きな建物がなくなつてしまつた事とて境内は荒野[あれの]のやうに広々として重苦しい夕風は真実無常を誘ふ風の如く処を得顔[えがほ]に勢づいて吹き廻つてゐるやうに思はれた。今までは本堂に遮られて見えなかつた裏手の墳墓が黒焦げになつたまま立つてゐる杉の枯木[かれき]の間から一目に見通される。家康公の母君の墓もあれば、何とやらいふ名高い上人[しようにん]の墓もある......と小さい時私は年寄から幾度となく語り聞かされた......其等の名高い尊い墳墓も今は荒れるがままに荒れ果て、土塀の崩れた土から生えた灌木や芒[すすき]の茂り又は倒れた石の門に這ひまつはる野蔦[のづた]の葉が無常を誘ふ夕風にそよぎつつ折々軽い響を立てるのが何とも云へぬ程物寂しく聞きなされた。
伝説によれば水戸黄門が犬を斬つたといふ門だけは、幸にして火災を逃れたが、遠く後方に立つ本堂の背景がなくなつてしまつたので、美しく彎曲した彫刻の多い其の屋根ばかりが、独りしよんぼりと曇つた空の下に取り残されて立つ有様却[かへつ]て殉死の運命に遇はなかつたのを憾み悲しむやうにみられた。門の前には竹矢来[たけやらい]が立てられて、本堂再建[さいこん]の寄附金を書連[かきつら]ねた生々しい木札が並べられてあつた。本堂は間もなく寄附金によつて、基督新教の会堂の如く半分西洋風に新築されると云ふ話......ああ何たる進歩であらう。
私は記憶してゐる。まだ六ツか七ツの時分、芝の増上寺から移つて此の伝通院の住職になつた老僧が、紫の紐をつけた長柄の駕籠に乗り、随喜の涙に咽[むせ]ぶ群衆の善男善女と幾多の僧侶の行列に送られて、あの門の下を潜つて行つた目覚しい光景に接した事があつた。今やDemocratie[デモクラシイ] Positivisme[ポジチズム]の時勢は日一日に最後の美しい歴史的色彩を抹殺して、時代に後[おく]れた詩人の夢を覚さねば止むまいとしてゐる。