2/2「伝通院 - 永井荷風」日本の名随筆別巻94江戸 から

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2/2「伝通院 - 永井荷風」日本の名随筆別巻94江戸 から

安藤坂は平かに地ならしされた。富坂の火避地[ひよけち]には借家が建てられて当時の名残の樹木二三本を残すに過ぎない。水戸藩邸の最後の面影を止めた砲兵工廠の大きな赤い裏門は何処へやら取除[とりの]けられ、古びた練塀は赤煉瓦に改築されて、お家騒動の絵本に見る通りであつたあの水門はもう影も形もない。
表町[おもてまち]の通りに並ぶ商家も大抵は目新しいものばかり。以前此辺の町には決して見られなかつた西洋小間物屋、西洋菓子屋、西洋料理屋、西洋文具屋、雑誌店の類[たぐひ]が驚くほど沢山出来た。同じ糸屋や呉服屋の店先にも其の品物はすつかり変つてゐる。
嘗ては六尺町の横町から流派の紋所をつけた柿色の包みを抱へて出て来た稽古通ひの娘の姿を今は何処[いづこ]に求めやうか。久堅町[ひさかたまち]の穢多町[えたまち]から編笠を冠つて出て来る鳥追[とりおひ]の三味線の何処に聞かうか。時代は変つたのだ。洗髪[あらひがみ]に黄楊[つげ]の櫛をさした若い職人の女房が松の湯とか小町湯とか書いた銭湯の暖簾を掻分けて出た町の角には、でくでくした女学生の群[むれ]が地方訛りの嘆賞の声を放つて活動写真の広告隊を見送つてゐる。
今になつて、誰一人この辺鄙[へんぴ]な小石川の高台にも嘗ては一般の住民が踊の名人坂東美津江の居た事を土地の誇りとなし又寄席で曲弾[きよくびき]をした為め家元から破門された三味線の名人常磐津金蔵が同じく小石川の人であつた事を尽きない語草にしたやうな時代のあつた事を知るものがあらう。現代の批評家は私が芸術を愛するのは巴里を見て来た為めだと思つてゐるかも知れぬ。然しそもそも私が巴里の芸術を愛し得た其のPassion 其の Enthousiasmeの根本の力を私に授けてくれたものは、仏蘭西人がSarah Bernhardtに対し伊太利亜人がEleonora Duseに対するやうに、坂東美津江や常磐津金蔵を崇拝した当時の若衆の溢れ漲る熱情の感化に外ならない。哥沢節[うたざわぶし]を産んだ江戸衰亡期の唯美[ゆいび]主義は私をして二十世紀の象徴主義を味はしむるに余りある芸術的素質をつくつてくれたのである。

 



夕暮よりも薄暗い入梅の午後牛天神[うしてんじん]の森蔭に紫陽花の咲出[さきいづ]る頃、又は旅烏の啼き騒ぐ秋の夕方沢蔵稲荷[たくぞういなり]の大榎の止む間もなく落葉する頃、私は散歩の杖を伝通院の門外なる大黒天の階[きざはし]に休めさせる。その度に堂内に安置された昔のままなる賓頭廬尊者[びんづるそんじや]の像を撫ぜ、幼い頃此の小石川の故里[ふるさと]で私が見馴れ聞馴れたいろいろな人達は今頃どうしてしまつたらうと、そぞろ当時の事を思ひ返さずにはゐられない。
そもそも私に向つて、母親と乳母とが話す桃太郎や花咲爺の物語の外に、最初のロマンチズムを伝えてくれたものは、此の大黒様の縁日に欠かさず出て来たカラクリの見世物と辻講釈の爺さんとであつた。 
二人は何処から出て来るのか無論私は知らない。然し私がこの世に生れて初めて縁日と云ふものを知つてから、其の後[ご]小石川を去る時分までも二人の爺[ぢぢい]は油烟[ゆえん]の灯[あかり]の中に幾年たつても変らない其の顔を見せてゐた。其れ故或は今でも同じ甲子[きのえね]の夜[よ]には同じ場所に出て来るかも知れない。
ラクリの爺は眼のくさつた元気のない男で、盲目[めくら]の歌ふやうな物悲しい声で、「本郷駒込吉祥寺八百屋のお七はお小姓の吉三に惚れて......。」と節をつけて歌ひながら、カラクリの絵板につけた綱を引張つてゐたが、辻講釈の方は歯こそ抜けて居れ眼付のこわい人の悪るさうな爺であつた。余程遠くから出て来るものと見え、いつでも鞋[わらじ]に脚絆掛[きやはんが]け尻端折[しりはしをり]と云ふ出立[いでたち]で、帰りの道夜道の用心と思はれる弓張提灯[ゆみはりぢようちん]を腰低く前に結んだ真田[さなだ]の三尺帯の尻ツペたに差してゐた。縁日の人手が三人四人と時代に後れ其の周囲に集ると、爺さんは煙管[きせる]を啣[くは]へて路傍[みちばた]に蹲跼[しやが]んでゐた腰を起し、カンテラに火をつけ、集る人々の顔をずいと見廻しながら、扇子をパチリパチリと音させて、二三度つづけ様に鼻から吸ひ込む啖唾[たんつば]を音高く地面へ吐く。すると始めは極く低い皺嗄[しはが]れた声が次第次第に専門的な雄弁に代つて行く。
「......あれぇッと云ふ女の悲鳴。こなたは三本木の松五郎、賭場の帰りの一杯機嫌、真暗な松並木をぶらぶらとやつて参ります......」

話が興味の中心に近いて来ると、いつでも爺さんは突然調子を変へ、思ひもかけない無用なチヤリを入れて其れをば聞手の群衆から金を集める前提にするのであるが、物馴れた敏捷な聞手は早くも気勢を洞察して、半開きにした爺さんの扇子が其の鼻先へと差出されぬ中にばらばら逃げてしまふ。すると爺さんは逃げ後[おく]れたまま立つてゐる人達へ面当[つらあて]がましく、「彼奴等ア人間はお飯[まんま]喰はねえでも生きてるもんだと思つてゐやがらア。昼鳶[ひるとんび]の持逃[もちにげ]野郎奴。」なぞと当意即妙の毒舌を振つて人々を笑はせるかと思ふと罪のない子供が知らず知らずに前の方へ押出て来るのを、又何とか云つて叱りつけ自分も可笑さうに笑つては例の啖唾を吐くのであつた。
縁日の事からもう一人私の記憶に浮び出[いず]るものは、富坂下の蒟蒻閻魔の近所に住んでゐたとか云ふ瞽女である。物乞をする為めに急に三味線を弾き初めたものと見えて、年は十五六にもなるらしい大きな身体[ずうたい]をしながら、カンテラを点[とも]した薦[ござ]の上に坐つて調子もカン処[どこ]も合はない「一ツとや」を一晩中休みなしに弾いてゐた。其の様子が可笑しいと云ふので、縁日を歩く人は大抵立止つては銭を投げてやつた。二年三年とたつ中[うち]に瞽女は立派な専門の角附[かどづけ]になつて「春雨」や「梅にも春」などを弾き出したがする中[うち]いつか姿を見せなくなつた。私の家[うち]の女中が何処から聞いて来たものか、あの瞽女は目も見えない癖に男と密通[くつつ]いて子を孕んだのだと噂してゐるのを聞いた事がある。
これも同じ縁日の夜に、一人相撲をいふものを取つて銭を乞ふ男があつた。西、両国、東、小柳と呼ぶ呼出し奴から行司迄を皆一人で勤め、其れから西東の相撲の手を代り代りに使ひ分け、果は真裸体[まつぱだか]のままでズドンと土[どろ]の上に転る。然しこれは間もなく警察から裸体[はだか]になる事を禁じられて、其れなり縁日には来なくなつたらしい。

 



金剛寺坂の笛熊[ふえくま]さんと云ふのは、女髪結の亭主で大工の本職を放擲[うつちや]つて馬鹿囃子の笛ばかり吹いてゐた男であつた。按摩[あんま]の休斎[きゆうさい]は盲目[めくら]ではないが生付いての鳥目であつた。三味線弾きにならうとしたが非常に癇[かん]が悪い。落語家[はなしか]の前座になつて見たが矢張見込がないので、遂に按摩になつたといふ経歴から、一寸踊もやる落話[おとしばなし]もする愛嬌者であつた。
般若[はんにや]の留さんといふのは背中一面に般若の文身[ほりもの]をしてゐる若い大工の職人で、大タブサに結つた髷[まげ]の月代[さかやき]をいつでも真青[まつさお]に剃つてゐる凄いやうな美男子であつた。其の頃にはまだ髷を結つて居る人も大分残つてはゐたが、然し大方は四十を越した老人[としより]ばかりなので、あの般若の留さんは音羽屋のやつた六三[ろくさ]や佐七[さしち]のやうなイキなイナセな昔の職人の最後の面影をは、私の眼に残してくれた忘れられない恩人である。
昔は水戸様から御扶持を頂いてゐた家柄だとかいふ棟梁の悴に思込まれて、浮名を近所に唄はれた風呂屋の女の何とやら云ふのは、白浪物にでも出て来さうな旧時代の淫婦であつた。江戸時代の遺風として其の当時の風呂屋には二階があつて白粉[おしろい]を塗つた女が入浴の男を捉へて戯れた。かくの如き江戸衰亡期の妖艶なる時代の色彩を想像すると、よく西洋の絵にかかれた美女の群の戯れ遊ぶ浴殿[よくでん]の歓楽さへさして羨むには当るまい。



小石川は東京全市の発達と共に数年ならずしてすつかり見違へるやうになつてしまふであらう。
始めて六尺横町[ろくしやくよこちよう]の貸本屋から昔の儘なる木版刷の八犬伝を借りて読んだ当時、子供心の私には何とも云へない神秘への趣を示した氷川の流れと大塚の森も取払はれるに間もあるまい。私が最後に茗荷谷のほとりたる曲亭馬琴の墓を尋ねてから、もう十四五年の月日が早くも去つてゐる......。
明治四十三年七月