「晩年の荷風と小林青年 - 川本三郎」05年版ベスト・エッセイ集 から

「晩年の荷風と小林青年 - 川本三郎」05年版ベスト・エッセイ集 から


小林修」という人のことがずっと気になっていた。
永井荷風の日記「断腸亭日乗」の晩年にしばしば登場する人物である。「日乗」の晩年というと「正午浅草」の記述がよく知られているが、それと同じように印象に残るのが「小林来話」。
市川市八幡の荷風の家を「小林」が何度も訪れている。荷風は昭和三十四年(一九五九)の四月三十日に亡くなるが、その四月に入って、「日乗」には「小林来話」が続く。死の前日の四月二十九日にも「小林来る」と記されている。おそらく荷風が会った最後の人だろう。
それだけ重要な存在なのに、この「小林」がどういう人間だったのか、ほとんど知られていない。秋庭太郎の名著「考證 永井荷風」(岩波書店、昭和四十一年)をはじめとするその詳細綿密な研究書にも、「小林」については詳しく書かれていない。
「日乗」によって、かろうじて荷風との関係はうかがえる。
よく知られているように、荷風は昭和二十年三月十日の東京大空襲によって住み慣れた家、麻布の偏奇館を失ない、その後、明石、岡山、熱海などを転々とし、昭和二十一年一月に千葉県市川市に移り住んだ。
昭和二十二年から二十三年にかけて、フランス文学者の小西茂也の家(市川市菅野)に部屋を借りるが(小西邸はいまも当時のままに健在)、なにさろ気難しい文士のこと、小西家との関係がまずくなり、立ち退くことになった。
戦後の住宅難の時代、七十歳に近い孤独な人間が新しい家を探すのには相当苦労したに違いない。心細い思いもしたことだろう。
この時、荷風を助けたのが「小林」という青年である。小林青年のおかげで荷風は小西家の近くに売りに出ていた家を買うことが出来た。
よほどうれしかったのだろう。「日乗」昭和二十三年十二月十三日に、荷風は小林青年とその母親への深い感謝を記している。総じて人に厳しかった荷風にしては珍しい。
「年下小林氏と共に八幡の登記所に至り売主代理人と会見し家屋の登記をなす。小林氏といふは和洋衣類の買売をなすもの。余とは深き交あるに非らず、今春余は唯二三着洋服を買ひしことあるのみ。然るに余が年末に至り突然家主より追立てられ途法[まま]に暮れ居るを見て気の毒に思ひ其老母と共に周旋すること頗[すこぶる]懇切なり。今の世にも親切かくの如き人あるは意想外といふべし」

知人の少ない土地で、さほど親しくなかった人間に思いがけず親切にされた。その厚情に素直に感謝している。
この昭和二十三年に知り合った小林青年との交流が、亡くなる昭和三十四年まで、十年以上にわたって続いたことになる。親しい人間の少なかった荷風の、数少ない若い友人といっていい。
だからこそ、この小林青年に興味を覚える。いったいどういう人間だったのか。
この三月、荷風終焉の地、市川市で「永井荷風展」が開かれることになり、その企画に関わる機会を得た。そこで、かつて荷風が部屋を借りていた小西茂也の長女、小西鮎子さんにお会いすることが出来、思いがけない話を聞いた。
小林青年は、小西家の前に住んでいたという。不動産の仕事や、洋服の売買をしていた。また踊りの先生もしていた。男性と一緒に暮していた。
ただその後、どうなったのかは小西鮎子さんにもわからないという。
そこで三月に「永井荷風展」が開かれた時、市川市の文化振興課の課長、小原みさ子さんにお願いして、会場に「小林修さんの消息をご存知の方、ご一報下さい」と掲示してもらった(市川市は文化行政に非常に熱心なところ)。
掲示はしてもらったが、四十年以上も前の話。関係者も、もういないだろうと正直、期待はしていなかった。
とこらが思いがけず小林青年のことをよく知っている人が現われた。小林修は当時、小林庄一という男性と暮していたが、その人の姪にあたる二人の女性である。
荷風のことが懐しかったのだろう、市川市の「永井荷風展」を見に来て、「ご一報下さい」の掲示を知り、市川市に連絡を下さった。
小林二三子さん(七十一歳)と船橋よし江さん(六十四歳)のご姉妹。
お二人によると小林修は本名吉田修。大正八年(一九一九)生まれ。荷風と知り合った時は二十八歳になる。生家は押上の理髪店。踊りが好きで、日本舞踊、西川流の名取になりお弟子さんも持った。昭和五十九年(一九八四)にがんで亡くなっている。生涯独身。
荷風のことを心底、尊敬していて、最後までそばにいて身のまわりの世話をした。荷風の遺体を見つけることになる通いのお手伝い、福田とよを荷風に紹介したのも小林青年だという(「日乗」に「其老母」とあるのは福田とよのことだろう)。
写真を見せていただいたが、美男でダンディな青年だった。荷風から見れば子の世代になる。ひとり暮しの老人としては、小林青年がそばにいることは頼もしかったに違いない。
文壇とも縁のない人だったから、文壇付き合いを嫌った荷風は心を許すことが出来たのだろう。
これほど荷風に信頼されていたのなら、荷風死後、マスコミに登場して思い出を語ったりしてもよさそうだが、そういうことをいっさいせず、ただ、市井の人間として黙して世を去ったのも好ましい。お墓は多磨墓地にあるという。