「最後の浅草行き(抜き書き) - 松本哉」朝日文庫 永井荷風ひとり暮し から

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「最後の浅草行き(抜き書き) - 松本哉朝日文庫 永井荷風ひとり暮し から

(前略)
何だか機械じかけの臘人形(老人形?)のような荷風像が浮かび上がってくる。黙って食べて、黙って去ってゆく。出ていった戸は開けっぱなし。口にする物も、勘定の仕方も判で押したように毎日同じ......。
「ある時、八丁堀の七味唐辛子をお客さんに差し上げたことがあるんですが......」とおかみさんが言いかけたので、すぐにピンときた。「よけいなことをするなという顔で、受け取らなかったんでしょう?」と先回り。「そうなんです。持って行かれない。あの方だけに差し上げたのではなく、皆さんに一つずつ差し上げたんですけどねえ」。ハハハ、いわれなき施しは受けぬ、いや、機械じかけの人形にはそういう特別サービスに対応するプログラムは内蔵されていなかったのかも。

ところが、ある日大変なことがおこった。機械人形の歯車が突然狂ったのだ。
「ちょうど私が帳場に座っていたときですけれどね、永井先生はいつも帳場の前のテーブルにつかれますが、珍しくトイレにお立ちになりました。帳場のすぐ横です。杉板の引き戸になっていたのですが、しばらくして中からドシン!と倒れかかるような音がしましたので、びっくりして、店の男の人に様子を見させましたら、先生が中でひっくり返っておられたのです。
おお、この話こそ尾張屋における荷風伝説のクライマックスである。女のおかみさんの口からはあまり詳しくは説明されなかったが、結構みっともない姿で倒れていたらしい。
「顔色も悪いし、『先生、上で少しお休みになってゆかれては......』と申し上げたのですが、大丈夫大丈夫とばかりに手を左右に振って帰って行かれました。帰る間際に、調理場(帳場の奥)の方へ顔を出し『どうもありがとうございました』と言われました」。
その翌日から荷風先生の姿が見えなくなったというのだ。
「翌日など皆でずいぶん心配したものですが」とおかみさんの言葉をそのまま記せば、「一週間ほどしてでしょうかね、亡くなられたことを知ったのです」。

『最後の浅草行き』

さあ、ここが大きな問題となる。この話によると、荷風氏の浅草はこの尾張屋が最後となる。「一週間」は極端としても、たとえば死ぬ一カ月くらい前まで荷風氏は浅草で毎日かしわ南蛮を食べ、トイレの中で倒れたのだ。
死の前日までつけていた荷風日記を見てみよう。晩年はずっと千葉県市川市に住んでいて、最後の二年くらいは判で押したように毎日々々「正午浅草」と書いてある。雨の日も雪の日も、平日も日曜日も同じだ。しかし浅草のどこへ行ったかについてはほとんど記されていない。「アリゾナ」「梅園」「松屋」「観音本堂再建落成」などの文字を拾うことはできるが、ごくごく限られた日にそうした固有名詞が出てくるだけである。

昭和三十三年十月二日のところに「正午浅草。食後松屋にて中折帽を買ふ。参千五百円。高価実に驚くべし」とあり、尾張屋に飾ってある写真の中で荷風氏がかぶっているのは、このとき買った帽子らしい。井沢昭彦青年に追いかけられたのは昭和三十四年の早々らしいから、このすぐ後だ。
そして昭和三十四年三月一日。この日は「日曜日。雨」だったそうだが、やはり「正午浅草」。いずこで時をすごしたかの記述はここにもないのだが、「病魔歩行殆[ほとんど]困難となる。驚いて自働車を雇ひ乗りて家にかへる。」と書かれている。亡くなるちょうど二カ月前のことで、その後「浅草」の文字は日記から消えてしまう。

「此の日荷風は例の如くアリゾナに於て食事中に発病、帰り道にラッキーステップと白ペンキで書かれてある店先で転倒、腰をしたたか打つた。アリゾナ主人は驚いてボーイを荷風に付き添はせ、ハイヤーを呼ぼうとしたが、荷風はうるさがるやうにボーイを押のけて、独りで雷門まで遅々たる足どりで歩み、タクシーに乗って帰った。アリゾナから雷門に至る距離は数分の近きに拘らず荷風は数十分要したさうである。これはアリゾナ主人の直話であるが、日記にある如く、余程歩行が困難であつたのであろう。この日が荷風の浅草行の最後となつた」。
これは秋庭太郎氏の『考證永井荷風』の一節である。秋庭氏は二十年がかりで浩瀚荷風伝を四冊刊行しているが、この日の荷風についての見解は終始一貫変わっていない。「アリゾナ」店頭における転倒こそが浅草の最後、つまり荷風氏の散歩の最後であるとされている。これが定説なのである。
しかるに尾張屋。あそこで得た証言はどうなるだろう。毎日荷風氏は尾張屋に顔を出していたのであり、井沢氏の撮った写真が証拠となる。トイレ内での転倒がしめくくり。店の人には死の「一週間くらい前」と記憶されているのだから、これが荷風氏の『最後の浅草行き』としてよい。
「どうして荷風さんの日記に尾張屋が出てこないのでしょう?」
尾張屋のおかみさんに、一応こんな質問をしてみた。
「店にいらしていたときから、荷風先生のことはどなたにも申しませんでした。店には芸人さんをはじめ有名な方がいろいろお見えになっていましたから、食事以外のことで、たとえばサインをせがんだり、写真を撮ったりするのは、きっぱりお断りでした。当時は週刊誌などマスコミも今のようではなかったですから、荷風先生に関する取材を受けることもありませんでした」。したがって世間の誰も知らないということだ。
アリゾナか、尾張屋か、どちらが荷風さんの最後だろう。双方を詰問して、どちらかをウソと決めつけるのはヤボ。ホントの話が二通りや三通りあるのが「伝説」というやつだ。この疑問に対して、例の新藤兼人氏は明快にこう言っている。
「『断腸亭日乗』にはなぜ荷風尾張屋のかしわそばのことを記さなかったのか。誇り高い荷風であったから、トイレでおしりをむきだして倒れたことが、かえすがえすも残念であったのか」。
アリゾナをかならずしも無視しているわけではないが、尾張屋のトイレに何か真実の匂いを嗅ぎつけているのである。