「荷風追想 -正宗白鳥」講談社文芸文庫 白鳥評論 から

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荷風追想 -正宗白鳥講談社文芸文庫 白鳥評論 から

永井荷風逝去の報に接す。晴天の霹靂の如きか。あるいは来るものがついに来たかという常套の感じか。
私は氏と年齢を同じうしていたため、氏の生活ぶりや健康状態に関心を持っていたが、親しく交ったことはなかった。お互いに明治以来、長い間、文筆業にたずさわっていたのであったが、作風も人生観も、全く異っているといっていいほど異っていたので、たまに何処かで会ったって、打ち解けた話の出来そうではなかった。
いつ頃からか、氏は人間嫌いであると、文壇の噂で極められていたが、私もいつ頃からか、人間嫌いのように、世間から極印を捺[お]されていた。しかし、私は、自分で自分の心境を検討して、決して人間嫌いではないと断定していた如く、荷風君だって、人間嫌いではあるまいと推察していた。人間嫌いであんな小説が書けるものではない。人一倍、人間が好きだったのではあるまいか。
その心理の研究は別として、私は荷風の作品は殆んどすべてを読んで、そのすべてを愛好した。『地獄の花』など、初期の作品は読んでいなかったが、数年間欧米に滞在して、帰りたくないのに、余儀なく帰って来てからの氏の作品に漂っている気持は、同年の私の青春を揺り動かしていたように追憶されるのである。「新潮」に出た『祭りの夜語り』(?)は、氏の帰朝後最初の作品であったと記憶しているが、あれが、私には最も感銘が深かったのだ。『新帰朝者日記』『監獄署の裏』『牡丹の客』『すみだ川』。
小山内薫の紹介で『西洋音楽最近の傾向』の原稿を手にした時は、私には、読んでも、音楽の事はよく分からなかったのに関らず、それを、読売の日曜か月曜かの文芸附録に、一ページを通して掲載した。読売は自然主義の機関新聞であったように伝説的に言われているが、そんなことはなかったのだ。永井氏も三田に勤めるようになるまでは、自然主義、非自然主義のへだてはなかった筈だ。何かの随筆的小説が発売禁止になった時、氏は、それに対する皮肉な感想を私あてで読売に寄稿した。自分の作品が日本で禁止されるのなら、自分は、フランス文で書かねばならないか。そうなると、フランス文が上手になるだろうというような事も書かれてあった。

私が永井氏にはじめて会ったのは、帝劇の廊下に於いてであった。生田葵山の紹介によるのだ。あとで葵山は「二人ともそっけないので、おれも取りなしようがなかった」と笑っていた。喫茶店のプランタンではおりおり会っていたが他所[よそ]ながら会っていただけだ。しかし、一度、一しょに加賀太夫の新内を聴きに行ったのは不思議だ。「紫朝のすすり泣きの新内よりも、たたきつけるような加賀太夫のが面白い。あれが本格的か。」と、音曲なんか没分暁漢[わからずや]の私が言うと「或いはしからん」と、荷風君がお愛想に応じたことを、今私は興味を持って思い出すのである。
氏は、あの頃、毎日のように、風月堂へ午餐を食べに行っていたらしく、貧乏な文壇人に羨まれていたが、私は帝国ホテル宿泊中、おりおり其処へ行っていたので、或る日、一しょに食事をした。
「この頃は新進の作家が幅を利かせて多額な原稿料を取るので、我々もその伴をして原稿料の値上げをされるようになった。」などと、話したりしたが、打ち解けて話したのは、その時だけである。
それから或る夏軽井沢のホテルで会った。久米正雄君もそのホテルにいた。我々の知人某が、或る芸者を連れて、軽井沢の或る日本宿に行っていて、そこで不意の死を遂げ某の細君が東京からかけつけて、一騒ぎあったのだが、久米、永井、私などホテルで一しょに食事をしたあと、久米君は死者の後始末にかかりあっていたようであったが、後日、久米君は「僕がいなくなると、二人は黙って、よそよそしくお茶を飲んだりしていた。」と、誰かに話したそうだ。
私が荷風君に接触したのは、一生を通じてこれっ切りである。
しかし、私は氏の晩年の生活振りには、むしろ好意を持っていた。孤独に徹していることに廔々我及ばずと思っていた。