「季語 - 安東次男」中公文庫 芭蕉 から

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「季語 - 安東次男」中公文庫 芭蕉 から

薫風という季語がある。風薫る。風の香ともいい、歳時記を開いてみると三夏を通じての季語としている。しかし現代このことばによって連想するのは、初夏の青葉を渡ってくる風で、『広辞苑』にも「初夏の涼しい風がゆるやかに吹くこと」としるしている。大方の人々に肯われるところだろう。そうなったのは、たぶん明治・大正以降のことで、子規の「薫風や千山の緑寺一つ」なども、とくに初夏と限定して見るべき材料はないが、やはり初夏らしいと眺めてふさわしい感興である。「薫風や蚕[こ]は吐く糸にまみれつつ」(渡辺水巴)に至ると、これはもうはっきりと初夏のものであろう。春蚕の上蔟は、おおむね五月上旬から中旬にかけてである。
ところが、古い連・俳の書をひもといてみると、薫風はむしろ晩夏の季語であったらしく、古くは天正十三年里村紹巴[じようは]が秀吉に進献した連歌論書『至宝抄』(寛永四年刊)に「末の夏」の題としるし、立圃[りゆうほ]の『はなひ草』(寛永十三年)、季吟の『増山の井』(寛文三年)もそれを踏襲して、陰暦六月つまりいまの暦でいうと七、八月の季題として収めている。さかのぼって、中世和歌の時代にもこのことばは好んで詠込まれているが、それらの作例によると夏として用いたものは少く、多くは梅・桜と結んで春の風としている。一例を挙げれば、定家の『拾遺愚草』に収める歌は「風かをるをちの山路の梅の花色に見するは谷のした水」であり、「続拾遺集」にのせる前大納言良教の歌は「風かをる木のした風は過ぎやらで花にぞくらす志賀の山ごゑ」である。ほかに花橘の香りや、まれに杜★の声と結んで夏に用いた歌も散見するが、多くはない。
薫風は、現代の歳時記では青嵐とほとんど同じ風と見なされ、五月ごろから吹く南風あるいは東南風の季節的状況を言うのだが、古くは風そのものよりも、風が運んでくる物の香りに主たる関心があったことが、作例によってわかる。春の風なのではなくて、桜花や梅花がはこぶ風なのである。同様に、夏に詠まれていても夏の風ではなく、花橘の香りをはこぶ風である。時代の好尚に応じて、物の香に寄せる興が変り移るというのなら、このことばがわかる。もともと、中国の有名な詩句「薫風南ヨリ来リ、殿閣微涼ヲ生ズ」より来たもので、日本人の自然な季節感情が生んだ季題ではないから、興の中心は、風がかおると感じる同心の表出にあって、気象現象の側から一概に規定もできない。薫風の季感が時代によってとかく移り易かったのは、そういうことに関係がある。
薫風を末夏の季と定めたのは紹巴の『至宝抄』(天正十三年)あたりからだが、作例がなければ季詞は死語にひとしい。となるとこれが治定[じじよう]したのは元禄以降のことだろう。芭蕉の『おくのほそ道』には、出羽三山のくだりに、有名な「ありがたや雪をかほらす南谷」の句があり、また、紀行文には入っていないが、新庄の盛信亭での「風の香も南に近し最上川」が、同行曽良の「書留」に遺されている。前者が元禄二年六月四日、後者が六月二日に詠まれていて、ともに晩夏にちかいころの吟である。さしづめこのあたりが、薫風の季語としての草創期の工夫であろう。根雪や水の運んでくる香りを南風の香と見定めて、これを陰暦六月上旬の句作りとしたあたり、芭蕉は古歌伝統の心栄を採入れながら、南風がほんとうに南風らしくなってゆく季節の深まりをよくつかんでいる。南の風は四月ごろから九月ごろまで吹くが、そういう均[なら]した認識ではこれらの句を捉えることができまい。
蕉風円熟期の撰集として知られる『猿蓑』には、凡兆の発句ではじまる「きりぎりす」の巻という歌仙が収められており、その中には次のようなはこびが見られる。

摩耶が高嶺に雲のかかれる 野水
ゆふめしにかますご喰へば風薫 凡兆
蛭の口処[くちど]をかきて気味よき 芭蕉

この凡兆の付句も、薫風を連句に採入れた草創期の工夫の一例だが、凡兆は野水の句(季は雑である)に夏を呼ぶ気配があると見定めて、それは「風薫」る頃だろうと受けている。また、前句が摩耶山の眺望であるから、関西とくに兵庫・大阪あたりでイカナゴの幼魚を呼ぶ俗称(カマスゴ)を裁入れて付けている。風薫るという語に歌語のイメージがまだ払拭されていなかった当時の事情を考えれば、この思切った風俗の取合せ、俗語の音の活かしかたは意表をついていて、現代ならさしづめ月並俳句として見逃されるところだが、やはり凡庸でないものが光っている。時は元禄三年秋、「ほそ道」の旅から一年。当然、一座には芭蕉の南谷の句や最上川の句が話題にのぼり、新季語の工夫についていろいろ話が交されたはずである。凡兆の句は、たぶんそれらの芭蕉の句作りの工夫を踏えて、別のところに、つまり市井の当世風俗の中に、新しい趣向を探っていて、そこのところが面白い。芭蕉が愛したのは、こういう凡兆の新しさだったろう。
芭蕉の付句は、「風薫」る時節にふさわしい農村行事で、田草取の趣向であるが、見どころは芭蕉が、それを田植や一番草などとは見ないで、二番草、三番草などの、稲もあとは実りを待つばかりとなった心のくつろぎ、そこにまじるもの憂い情感を巧に匂わせているらしいところにある。諸註は、この句を田植どきだの田草取だのと解している。薫風が末夏のものとされ、芭蕉もまたそういうふうに「ほそ道」の旅での句を詠んでいる以上、そんないいかげんな見定めは許されまい。許されないのが俳諧というものである。季が田植(仲夏)であっても、三番草(晩夏)であっても気にかけない諸註では、蛭にくわれた痕を掻いて「気味よき」と感じている人のくつろぎももの憂さも、当然見えてはこないが、それではこの句は困るのである。一句の姿からだけでは見えないものが、前句と合せると見えてくるというのは、連句の独創的工夫である。ここに挙げた例についていえば、芭蕉の付句の面白さは、一にかかって薫風の季の見定めにあって、それが陰暦四月でも五月でもなく、六月であるらしいことが、意外に句の深さを呼んでいる、と気付くのでそこがいっそうこの歌仙のはこびを面白くしている。
ところで、気づくことはもう一つ大事なことがあって、古俳書に薫風を陰暦六月の季として収めているということは、じつはさして重要なことではない。定められた季題を手がかりに、薫風ということばの季感の変遷をもとくと念頭に置いて、一座した人々が同心の在りようを確め、さぐっていることが、はこびに厚みを持たせている。芭蕉は句の仕立の表にとくに出してはいないが、ここは、「気味よき」のくつろぎ、もの憂い感情を連衆たちも感じ取っている、と読まなければならぬところだろう。じじつ、その次を付けた野水の句は「ものおもひけふは忘れて休む日に」となっていて、夏季の雑の恋句に転じた付だが、「蛭の口処」を田草取から医療法のそれに見替えながら、前句の人のもの憂いくつろぎ様を、的確に読取って付けている。相手のことだけではなく、恋に付随したもろもろの煩しさも、今日だけは忘れて休むという、こみ入った女心もそこには現れ出て、たぶんに女の宿下りなどと眺めた付だろうが、なかなかうまい句はこびである。歳時記というものは、使うならそういうふうに使わなければ、あって無きにひとしい。

元禄七年、芭蕉は、弟子の支考宛の一書簡に、興味ある文言を報じている。

(書簡-漢文-省略)

書状は閏五月二十三日付、当時芭蕉は嵯峨落柿舎にいたはずだが、その前日には去来、酒堂、丈草、支考、素牛らと俳諧を共にしている。去来はそのまま落柿舎にとどまったのであろう。支考はひとまず下京の宿に帰り、翌日人をしてさっそく音信あるいは音物を届けさせた。そのあたりの消息を、芭蕉は、なかなかユーモラスに報じている。去来の煙草嫌いは、『本朝文鑑』所収の「落柿舎の制札」の支考註に「煙草嫌ヒノ人」とあって、同門中にも有名なはなしだったようだが、その去来が、煙草好きの師のために、自分では喫いもしないきせるの脂掃除をしたということを、芭蕉は「去来一世之初」と興じている。去来のきれい好きの表情と、芭蕉のものぐさな表情とのあいだに、微妙な温情の動くところである。文言はそれをよく伝えていて面白いが、その去来のきせる掃除を芭蕉は、心を許した同行者のあいだにあってさえ珍重すべきことと看て取って、閏五月の季と定めよと言ってやったのだ。支考が他に先がけて早々と便りを問う、あるいは音物を送ってよこすなどということも、珍しいと喜んでいる。後代でなくとも、そうした事情を知らなければ、きせるの掃除や初音信が閏五月の季語などとわかるはずもない。それをそう言ったのは、芭蕉の同心の約束を信ずる心がつよくあったからだろう。思付の戯れ言として片付けるわけにはゆかない。
支考宛の手紙は、芭蕉俳諧を、ひいては季を連衆のものと見なしていた好例であるが、さてこの約束、同門の弟子たちのどのあたりまで伝ったか。はなはだ心許ない。芭蕉歿後、一門は麻のごとく乱れた。当の支考も、師道を売って己の勢力扶植の道具にした。篤実な去来にして、ときには自分の都合のよいように強弁したふしが見える。そうなることの先見を、「壬五月と季を定めて」ということばはよく伝えていて、そこには芭蕉の孤に徹した連衆心が、したたかな顔を覗かせている。

芭蕉にとって季語とはそこまで心をたどるものなら、そのかれに、「季節の一つもさがし出したらんは、後世によき賜」と門人たちをはげますことばがあり(『去来抄』)、一方でまた「発句も四季のみならず、恋、旅、名所、離別等、無季の句ありたきもの也」(同)という、一見それと矛盾するようなことばが遣されていても、これは一向に変てはあるまい。「季節の一つも」とは、芭蕉にとって、一気象、一風物のことではなかった。同行心を大事にとれば、冬の句を春の句になし替えるというような季の流通はもとより、無季もまた、かれの言う「季節」の一体であってよいのである。しかし、同季語に託した詩心がなぜ季節を取替える必要が起るのか、また、ときには季詞もついに入らぬほど、心を揺ぶられる状況というものがなぜ生れてくるのか、ということは句作りの中で瞭かにしておく必要がある、と芭蕉は考えているのではないか。
芭蕉の無季の句、たとえば「海に降雨や恋しき浮身宿」は、「ほそ道」の旅の途次、裏日本でふと女恋しさに駈られたかれの心の動揺を、そのまま人に伝える証として意味があった、と私は考える。同様に、「ものひとつ瓢はかろきわが世哉」は、芭蕉は貞享三年の某月某日、古人に倣って生涯一所不住の決意を新にしたらしいということを、これまた伝える証として意味がある。「発句も四季のみならず、恋、旅、名所、離別等、無季の句ありたきもの也」とはそういうことであって、いつどこでも無季の句が生れてよいと言っているわけではない。芭蕉の無季の句は、嘱目の中にたまたま季節感がなかったから生れたのではあるまい。むしろ、かれの積極的な生の証しをわれわれに突付けてくる態のものだ。こんなことを今までに言った人はいないが、私にはどうもそう思われる。その辺を見誤ると、連句の中でかれが、恋、旅、名所、離別などの句作りをとりわけ重要視した点も見えなくなるのだ。
一方、例の南谷の句は、季感を取替える工夫の好例だろう。芭蕉は、たまたま南谷に夏も雪が残っていたから、こんな句を作ったのではあるまい。『新古今集』には、春の部に「梅ちらす風も越えてや吹つらんかほれる雪の袖にみだるる」という歌が収めてあって、「二月雪落衣といふことをよみ侍りける」と前書があり、作者は康資王の母である。この「かをれる雪」の実状に即していえば梅の花であって、虚の雪であるが、こういう古歌の先蹤がなければ、「ありがたや雪をかほらす南谷」というふうな句は、なかなか生れてくるものではない。『新古今集』の一首があるゆえに、芭蕉の句はいっそう印象深く読める。陰暦六月はじめ、南風のつよくなるころの南谷の根雪にまで引移してきた、芭蕉の目、いや鼻は、俳諧師ゆえの伝統へのきびしい執念であるが、それは、俳諧師なら誰でもがこの新風への野心をもったというわけのものでもない。