(巻二十九)作法なき一人手前やほととぎす(野々上久去)

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(巻二十九)作法なき一人手前やほととぎす(野々上久去)

6月14日月曜日

梅雨入りで小雨の中を細君と眼科に行く。

長袖を離さずにいる走り梅雨(馬場美智子)

手術から1ヶ月経ったがまだ新聞は見出しまでのようだし、外の一人歩きはできそうにない。腫れは引いてきたとのことで、来週検眼し眼鏡の処方をするらしい。昼飯はオープンサンドに飽きたので京樽のちらしか茶巾にしてと云う。診療の間に10時の開店を待って買いに行った。幸い所望の折がありその両方を買っておいた。

眼科を終わりバスを待っていると後ろに並んでいた老夫人にどこからか初老夫人が近づいて、何か囁いてから指で円のようなものを作りそれを老夫人の頭にかざした。念力で頭に何かをねじ込んでいるらしい。老夫人は一切反応せず言葉も発しない。面倒だからやりたいようにさせておくと云う姿勢とお見受けいたした。しかし、呪[まじな]いか祈祷か判らないが、幻覚、幻聴、幻想の源である脳に焦点を当ててこれを改造しようと云うのは的を射ている。 こちらに来たら歯止めを取っ払ってくれるよう頼もうと思っていたが、素通りされてしまった。 初老夫人が去ったあと細君と老夫人がバスの行先のことで一言二言交わしていた。

昼飯は細君がちらしのいいところと茶巾を食し、私は茶巾の折についでに入れてある海苔巻きと伊達巻の寿司をいただき、足りないのでチキンラーメンに湯を注いだ。

今日は夕食も作らない。細君は昨晩の残り物を温め、私は生協へ行きカツ丼弁当を買ってきた。ついでに草餅でもと思ったが、草餅も豆大福も饅頭各種も揃って売り切れだ。

本日は三千九百歩で階段は1回でした。

今晩、飯を作らなかったと云うことは明日の昼食はオープンサンドとなろう。

「【大衆と古典文化】“歌笑”文化 - 坂口安吾」日本大衆文化論アンソロジー から

を読み進んでいる。

《 現代の代表的な建築は、法隆寺東照宮を模し、幽玄や、風流や、粋をさぐったものからは生れてこないにきまっている。もっと時代的な俗悪なもの、実用的なものが、後日において、法隆寺と同じ位置に到達するものなのだ。

だから、夢声のような一流の芸人が、映画説明という俗悪ではあるが、最も切実に時代的であった不粋なものから生れて育ってきたのは理にかなっているが、落語のように、すでに時代とかけ離れたものから、一流のものが現れてくる見込みはない。歌笑以上の新人は現れるかもしれないが、せいぜい二流どまりで、それ以上はありえないだろう。それ以上でありうる素質の持主は、かならず、もっと俗悪な、時代的なものへ飛びこんで生きようとするにきまっているから。》

たけしあたりか?

漫談の吾をうとみぬ冴え返る(徳川夢声)

願い事-叶えてください。ポックリで仕上げてください。