(巻二十九)木枯でやはり女は来なかった(新宿転石)

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(巻二十九)木枯でやはり女は来なかった(新宿転石)

7月8日木曜日

3ヶ月ぶりに美容院へ行くと云うので送り迎えを致した。一人でも行けないことはなさそうだが、安全第一である。

BBCをICレコダーに落として聴いている。ソニーオリンパスのを一台ずつ持っていて一台壊れても不自由はないが、念のためにソニーをもう一台備蓄することにした。

細君の仕上がりを待つ間に量販店に行ったが、ICレコダーなどという遺物の在庫はなく、メーカー在庫も無いらしく1ヶ月待ちでの取り寄せをお願いした。Podcastも何もかもがスマホで済むのだから他の機器ははすべて遺物になってしまう。

朝寝して時代遅れの予感かな(中西恒弘)

本日は四千二百歩で階段は2回でした。

願い事-叶えてください。生死直結が願いだな、やっぱり。

「趣味に生きても虚しい(抜書) - 小浜逸郎」死にたくないが、生きたくもない。から

趣味に漂うもの悲しさ

いったいに「趣味」という営みには、どこかしら根源的な「寂しさ」「もの悲しさ」が

漂っている、と感じるのは、私だけのひねくれ根性がなせる技だろうか。

好奇心旺盛な子どもや青年のころは、ある程度まで何かの趣味に没頭できる。「遊びをせむとや生まれけむ」というのは子どもの特質の一つである。だから、後先顧みずに何かに飛び込んで、気づいてみたら、けっこう「病膏盲[やまいこうもう]」の境地にたどりついていたということが多かれ少なかれあるだろう。

しかし、およそ趣味というものは、余暇として与えられた時間を埋める試みであり、孤独を慰める営みである。趣味が高じて仕事になってしまう場合は別だが、仕事にはならないから趣味なのである。仕事にはならないということは、社会への基本的な開かれとは別の領域でそれを追求するほかはないということだ。

趣味は、直接的には、他者とのかかわりをめがけず、何らかの「事物」をめがける。だからおよそどんな趣味でも、やろうと思えば一人で追求できるのである。

麻雀やゴルフや囲碁将棋や社交ダンスのように、一見相手がいなくては意味がないと思えるような趣味でも、一人の世界に入り込むことを許す。それが仕事ではなく趣味であるというまさにそのことのために、「仮想空間」を設定できるからである。

人間の本来の営みとは何か。恋愛や結婚生活や労働である。趣味は、これらの本来の営みの外側にある。それは、あくまでも生活の中心からは浮き上がっている。

と、こう言えば、当然、次のような反論が返ってくるだろう。

何を言っているのだ。人は何かの趣味を通して人間的な出会いを実現できるではないか。現にあらゆる同好の士の集まる場所に人は群れ集い、じっさいに豊かな人間関係をたくさん得られているではないか。趣味が楽しいゆえんは、それを通して、人との出会いがあるからこそなのだ......。

これはまったくそのとおりである。私は、多くの趣味にはそうした効用があること、人が結局はそういうことを求めているのだという事実を全然否定しない。そういうことが実現できる人、持続でかる人はそれでいい。けれども、それとてもそう簡単ではない。

まず第一に、「人間的な出会い」なるものが変に高じて、マイナスの方向にこじれてしまうことも多い。だれもがうまく人間関係の距離を保てるわけではないからである。「あの人がいるために、このサークルはうまくいかない」等々。そうなると、群れ集うことから撤退しなくてはならなくなり、好きであったはずの趣味そのものにも嫌気がさしてしまわないだろうか。

また第二に、その趣味自体に飽きてしまったらどうするのか。

いろいろなことに手を出してみればいいじゃないか、そのうちに自分の身に合った、簡単には飽きないような趣味が見出せるかもしれないでしょうという意見も傾聴に値する。しかし、もともと無趣味であった人にとって、たやすくそういうものが見つかるかどうかが問題なのである。