「路地 - 松山巌」日本の名随筆別巻44記憶 から

「路地 - 松山巌」日本の名随筆別巻44記憶 から

路地の中に、蹄の音を響かせて褐色の巨きな奴が、あえぎあえぎ入ってくると子どもたちは息をのんだ。夏の白い光の中、馬は荒い息を何度か吐いて私の家の前にある石置き場の横にとまる。馬は芝園橋脇の石材問屋から石を積んだ荷車を曳いてきたのである。荷馬車の男は、バケツに水を汲んで馬に飲ませ、汗を吹いてやる。水を飲む馬の息づかいを子どもたちは凝っと見つめている。汗がまたふき出す。むっとするけものの匂い。やがて馬は水を飲み終えると、長々と小便を垂れた。子どもたちは、ほわほわと湯気のたつ小さな川が路地の中をゆるゆると流れて行くのを追った。荷馬車の男は笑い、子どもの声は路地の中で弾けた。
三十年も前のことである、いや、そうではなくてたった三十年しか経ってはいない、と私は久し振りに戻ってきた路地の中で考える。私の家は当時、石屋であったから、石を積んだ荷馬車が年に数回やってきたのである。現在はもう既にあの石置き場はなく、そこには十二階のビルが建っている。
路地に、祖父が暮し、父が生れ、私が育った。東京、港区愛宕山下の一角。愛宕山は、東京タワーと日本で最初の超高層ビルである霞が関ビルとのちょうど中間にある。山というよりも丘といったほうが良いような低い山である。
三十年前は、小さな家屋が建て詰っていた町であったが、今ではすっかりオフィスビルが建ち並ぶ町。愛宕山もビル群がその周囲に立ちはだからるようにおおって、表通りを歩くかぎりすっかり見えなくなってしまった。ビルとビルの間をすり抜けるように狭い路地の中に入ると、まだ小さな家屋もあり、長屋も残ってはいる。けれども路地の向うには巨大なクレーン車が操動し、私の姿を見おろしている。十数階のビルが建設中。町には虫が喰ったように空地が到る所で眼につく。空屋も多い。いずれ空屋は取り崩され、小さな空地はまとめられてやがてそこに巨きなオフィスビルが建設される。馬など通るはずもない。
馬が路地にやってきた三十年前を改めて考えれば、東京タワーの建設工事がはじまる直前にあたることに気づく。あの鉄塔の設計図が出来上って敷地の整備工事がはじまっている脇を、褐色の馬は芝園橋から芝公園へと蹄の音を響かせ石を曳いていたことになる。
不思議な時代の推移、過渡期の異様さを私は見ていたわけである。が、過渡期の異様さならば、現在私が眼の辺りにしている光景、長屋が並ぶ路地の向うに巨大なクレーンがそびえている光景もおとることはないのではなかろうか。ただ、私たちはその光景を異様なものとして見ようとはしないだけなのではあるまいか。
やがて、小さな家屋が消えて巨きなビルに変る時、私たちは小さな家屋の建ち並んでいた町の記憶を脳裏から消していく。このビルの建つ場所にたった三十年前、馬が荷馬車を曳いていたことを誰が本当のことと思うだろうか。記憶の手がかりにするものがなくなりつつある。
しかし、私はかつてあった町の佇まいが消えていくことに驚き、単純に懐古的な感傷に浸っているわけではない。建築が時代の要求によって変り、町が変化するのは当り前のことである。私が本当に驚いているのは、小さな家屋や路地の後に建ち並びつつある巨大なビルが私の記憶の世界と対応しきないことである。巨きくて、どれも同じように見えるビルは、名称を憶えることはできても、その姿や建ち並ぶ順序が憶えきれない。かつての町ならば切れ切れながらも私の記憶の中にその姿を立ち上らせ、それぞれの建物の順を憶い出すことができる。ところが、現在の町に建つビルやそのビルの中にある飲食店や喫茶店など私に関係のある場所を憶い出そうとする時、一つ一つの場所は点のように頭の中で浮び上っても、それぞれを繋ぐことができないのである。私の頭の中で町は再現されない。私は実感のない町の中を歩いているに違いない。


イギリスの美術史家、フランシス・A・イエーツは『記憶術』の中で、ローマ時代の雄弁家たちは、町の記憶、建築の記憶を、演説を憶えるのに利用したと記述している。雄弁家たちは、演説をする以前にまず記憶術を学ぶ。この記憶術は、都市の街路に建ち並ぶ建物をまず自己の記憶の中により細かくたたきこむことからはじまる。雄弁家たちは、頭の中で自分の家を、その内部を辿り、ゆっくりと町の中を歩きながら順序通りに一つ一つの建物や広場や彫刻を憶い出し、それを道具としたのである。憶えこんだ建物、場所を彼が語るべき演説のポイントに対応させることで、彼は演説を自分自身が作り上げた筋道どおりに行うことができたのである。イエーツは、この記憶術が、時代の変化、生活の変化が早くなるにつれて必要でなくなり、やがて失われていったと述べている。
失われたのは、記憶術なのだろうか。
イエーツの論を引かなくとも、私は日本にもかつて同様の記憶術が寄席芸に存在したことを知っている。あるいは、この芸はヨーロッパから伝わったものかもしれない。日本の寄席芸の場合、演説はしない、記憶術そのものが芸である。客席から投げられた言葉や芝居のせりふなどを一番から三十番まで順序よく憶えて行く。憶え込んだ後、客席から、十番と声がかかれば、その十番に対応した言葉を述べる。次に十五番とかかれば、同様に十五番目の言葉を述べる。そして最後に一番から三十番、すべての言葉をよどみなく一気に口上して終る。
この芸の秘訣もイエーツが述べている記憶術と同様であるという。一番から三十番までの番号を芸人は自分がよく知っている町の建物やものに対応させて憶えこんでおき、次に客から与えられた言葉をその記憶の場所に頭の中で重ね合せるのである。この記憶術は誰にも可能だというが、私には、本当に可能なのかは分らないし、また実験するつもりもない。ただ、現在、この術は訓練するにはきわめて難しくなっているのではないか、と思う。なぜなら、町の建物や通りに並んだものを憶えこむことが難しくなったからである。
失いつつあるのは、記憶術でも、町の記憶でもない。褐色の馬が入ってきた路地の光景は記憶の中に戻っても、現在の通りの様相は記憶の中に沈んではいかないのである。記憶術が誰でも可能におもえるのは、なじんでいる町の大きさと記憶する能力の容量がほぼ一致していると考えられるからである。それに比して巨大なビルは、私たちがもつ記憶の容れものより大きすぎるのではあるまいか。一つ一つの建物のデザインは確かに個性的であっても、それを順に記憶するには余りにそれぞれが巨大にすぎ、結局はどれものっぺらぼうで没個性的に感じられる。記憶できない、のっぺらぼうな町が生れつつある。
私たちがいま立ち合っている過渡期の異様さとは、巨大なビルと長屋とが併存していることではなく、記憶できる町から記憶できない町への過渡期の異様さに立ち合っていることにあるのではあるまいか。そして、それは町を憶えられないということばかりでなく、私たちの身体に備わった一つの能力、記憶する力の何ほどかを同時に失いつつあるのではないだろうか。

路地を歩いて数日後、私は友人から雑誌の中にある一枚の写真を見せられた。それはフェリス・ベアトーというイギリスの写真家が撮ったパノラマ写真である。撮影時は慶応元年(一八六五)かその翌年。写真は「大名屋敷」と名付けられている通り、幕末の大名屋敷がどこまでも連なる風景を俯瞰している。どの大名屋敷も瓦屋根が美しく統一がとれている。撮影場所は、愛宕山。ベアトーは江戸を俯瞰でかる場所を求めて愛宕山を選んだものと思われる。
写真の風景は私が現在、愛宕山から望む風景とは明らかに違う。瓦屋根が連なる美しさは、もちろん眺めることができない。そのような世界があったと憶い出させるものはなにもない。そればかりか、山の前には高層ビルが建ちはだかり風景をさえぎっている。思えば、私たちはずい分と遠い所まで来たものである。
私はこれからベアトーが撮った幕末から現在にいたるまでの私たちの暮しの変貌を書くつもりである。百年以上の間にどれほど遠くまで、私たちの暮しが行きついたかを書こうと思う。ただし、百年前の大名屋敷の美しさを懐古的に讃えることが問題ではない。肝腎なのは、大名屋敷はまったく見られないが、それを写したカメラという機械は現在、誰もが手にできるようになったことであり、百年前すでに今ではまったく見られぬものと今ではありふれてしまったものの二つが併存していたということである。
私たちはおそらく美しい家並みがあった時から、多くのものを得たかわりに少しずつ何ものかを失い続け、そして現在、もしかすれば記憶できる風景と風景を記憶する能力のいずれをも少しずつ失いかけている。そして、さらに重要なことはこの少しずつ失っていったものが何であるのかをすっかり忘れてしまっている点である。失ったのではなく“奪われていった”のではないかという思いもある。
過渡期をすぎると失ったものは忘れさられる。すぐにそれが何であるのかさえ分からなくなってしまう。しかし、過渡期に生じた生活のズレは現在まで何らかの痕跡を少なからず残しているのではないだろうか。ズレが分からないのは現在では当り前として気づかぬからではあるまいか。私は各時代に起きた生活のズレを探す。そして、そこに暮しの断面を見て、それをインテリアと呼ぶことにしたい。私が探すのは、華やかに飾りたてられたインテリアではなく、失われ忘れさられたもう一つのインテリアなのである。