(巻三十)秋簾女七つの隠しごと(田中恵子)

f:id:nprtheeconomistworld:20210714082833j:plain

(巻三十)秋簾女七つの隠しごと(田中恵子)

7月13日火曜日

息子の依頼に応じて衣類や図書を送るためにとっておいた段ボール箱を廃棄した。生活も落ち着き、もう追送する品も無かろう。

昼飯のオープンサンドを食っていると遠くの雷鳴が聞こえる。午後の散歩はせずともよいが夕飯の食材が足りない。豚ももの薄切りが必須で買いに出かけた。昼休み時間のためか働く人たちが買い物に来ているようだ。無事豚肉を確保して雨が落ちてくる前に戻れた。

本日は三千六百歩で階段は3回でした。

風呂とシャワーの温度を2度下げた。

先週のBBCの番組ではFoodChainで蜜蜂の話があったが、それほど面白くはなかった。そこで在庫の中からCrowdScience20180608Is Hyponosis the Real Thingを聞き返した。催眠術についての話である。言葉として書き留めたのは1103hound out追放、1212quackeryいんちき医療、1746normal distribution正規分布、1901mindset考え方、物の見方、好み、2756out of window問題外、などである。催眠術の話なのでその筋の用語はふんだんに出てきているようだ。催眠術ショーなどもあり、学術的には催眠術は外道と見なされてきたらしい。

願い事-叶えてください。わたしゃさっさと消えます。隠し事でも何でも構いませんが後家になっての身の振り方だけは考えておいてください。

炉話の身の振り方に及びけり(北村仁子)

「後家 - 別役実ちくま文庫 思いちがい辞典 から

後家というのは、一種の社会的な身分のことである。そして、あからさまにそうは言われていないものの、当の女性にとっては、かなり理想的な身分と考えられている。女性にはすべて、「結婚願望」というものが潜在していると言われているが、実はそれ以前に「後家願望」があることが、今日社会学者の調査によって明らかになりつつある。つまり、彼女たちの「結婚願望」は本来「後家願望」なのであり、ものの道理として「結婚」しなければ「後家」になれないから、それがたまたま「結婚願望」として表明されているにすぎないのだ。

> 従っておおむねの女性は、早いものでは結婚した翌日から、「いつ後家になれるかしら」と考えはじめる。もっと人生に対して積極的で、計画的な女性は、「いつ後家になろうかしら」と考えはじめる、とまで言われているのだ。それほど、「後家はいい」のである。ただし、時々酒場の片隅などで、決して紳士とは言えないような中年男性が、「後家はいいよ」と言っているのを聞くことがあるが、これは意味が違う。この場合は、それら中年男性の性的対象として「後家は味わい深い」ということを言っているのであって、当の「後家」にとっての身分のことを言っているのではないからである。そして、当の「後家」にとっての「後家はいい」という意味など、中年男性には想像もつかない。つまり、それほど「いい」のだ。

> もちろん、これまで多くの中年男性が、当の「後家」にとっての「後家はいい」という真の意味を解明すべく、手をつくしてきた。しかし、これだけはどうしようもない。「後家はいい」という真の意味は、当の「後家」にしかわからないのであり、男は、どうあがいても「後家」にはなれないからである。「男やもめ」というのがあるにはあるものの、これはまた、社会的身分としてはこれ以上はないというほど絶望的なものなのだ。「まだ死んでいない」というだけのものにほかならない。

> 実は、「後家」の別称「未亡人」は、文字通り「まだ死んでいないもの」の意であり、「男やもめ」たちが「後家」もそうであろうと想像して名付けたものであるが、彼女たちが唯々諾々としてその蔑称を受け入れた時、男としては気付いていなければならなかった。もし、「後家」の身分がその蔑称にふさわしいみじめなものだったら、彼女たちは「ムッ」としてそれをはねつけたに違いないからである。つまり彼女たちは、「名を捨てて実を取った」のだ。そして、男どもにはそう思わせておけ、と考えたのだ。

> これから考えても、「後家」というものがかなり「いい」ものであることがよくわかる。しかも、「後家はいい」ということは、生物学的にも確かめられているのである。人類の場合、女性の方が寿命が長いということが、あらゆる環境において確かめられており、長いこと生物学的な謎とされてきたのであるが、この「後家はいい」事実と、それによって促された女性たちの「後家にならずにおくものか」という固い決意が、男性の寿命を超えるのであり、一方男性の「男やもめになりたくないな」というたじろぎが、女性に負けるのである。

> というわけで、ここへきてすべての男性が、「後家はいい」らしいことを気付かされつつあり、その事実を、いやおうなく認めさせられつつある。それはいい。男性というものは概して寛容な生きものであるから、「そんなにいい」なら「先に死んでやってもいいよ」とすら考えているのだ。しかし、「どんな風にいいのか」という、その点だけは知りたい。それを知らないでは、「死んでも死にきれない」のである。そこで或る男性が、或る「後家」に、「どんな風にいいんだい」と聞いてみた。するとその「後家」は、ニタリと笑って、「フン」とうそぶいた。恐らく、そんな風に「いい」のだろう。