「歯歯歯歯歯歯 - 富士正晴」日本の名随筆22笑 から

「歯歯歯歯歯歯 - 富士正晴」日本の名随筆22笑 から

片仮名でかくと、ハハハハハとなり、笑っているみたいだが、たしかに、自分の歯のことを笑っているのである。はなはだ面白い。
上顎の方には、歯が一本と、歯の根が一つ残っている。歯の根というのは、その先が虫歯になってボロボロにくだけて行き、根だけが残っているというわけで、こちらのつもりでは、根も浮き上がって来て、なくなるというわけだったが、相手は執念深くて、がっしり上顎に埋もっていて浮き上がらぬ。それを抜くのは歯医者のお世話にならねばならぬし、それを抜いてしまわねば、歯ぐきの肉がその場所に遠慮して、蔽[おお]ってしまってはくれぬ。歯ぐきを蔽いつくしてくれた肉を自然にきたえて、空手できたえた指のごとく固くし、下顎に残っている歯と協力して、コウコバリバリとやってやろうと思っているのに、そのさまたげになる。
その上、一本だけ残っている上の歯が、一本でも残っておれば、それだけ役に立つだろうと、素人は思うかも知れないが、これがかえって、残っているために邪魔になるということは、その持ち主の本人であるわたしだけしか判らない。この一本がなくなれば、コウコバリバリに一本近づけるということがわたしには判っている。
上の歯が一冊本を書き下ろすたびに、一本ずつ浮き上がり、抜け、その次の一冊の時、その隣の一本が抜けるという風な数年間、歯の噛み合わせが次々と別のところへ移るのが、面白かった気がするが、噛み合わせがあるうちは、大豆のいったのはもう噛みにくくはなりかけてはいたが、何とか噛んだし、飴玉もかみわったりしていた。
しかし、上が一本になり、噛み合わせがほぼ心細くなった今、どんな菜が食えるか考えてみると、高野豆腐、豆腐、さしみ(ただしいかは困る)、いか・たこの煮たの、焼き魚、煮魚、すきやきの肉、米飯、卵、うどん、そば(少し噛み切りにくいが)といったところが出てくる。食いにくいのは、野菜(生でも、煮たのでも噛み切りにくいのは、おどろくほどだ)、するめ、いり豆、冷えた米飯、おこわ、餅、干鱈、いかの刺し身、たこの刺し身、柿やりんごやなしの果物、浅草のり、とこう並べ立てて行くと際限がないことになる。
上一本の歯があることが却ってさまたげになると感じてくると、それが判るのか、上一本はガッシリと歯ぐきの中につっ立っていて、ゆらぎそうにもない。歯医者の世話にならなくては、これから一年や二年で抜け落ちそうにもない。悪意に満ちてがんばっていやがると、むしろ感心しそうにさえなる。
こう書いていると、まるで抜け歯太平記とでもいった面影があるが、そう楽しいことではない。総入れ歯を入れては徳川時代のじいさん、ばあさんに相済まぬ気がして、意地張って抵抗しているだけ、意地張って楽しがっているだけという風情であるにすぎない。
歯槽膿漏になって、顔がひんまがり、痛みがつづいて眠れそうにもないことがあったが、ムチャクチャ人間のわたしはそのような時、ウイスキーをガブのみして、がたんと眠ってしまったりする。次の日、ますます痛みがはげしかろうと、おそるおそる起きると、歯はぶらぶらになっており、顔のひんまがりはうそのように直っていた。
しかし、ぶらぶらとしている歯には、それが肉からはなれるまでの数日、食物があたり、下の歯があたる痛さに悩まされつづけるというわけだ。
ハハハハハ、歯歯歯歯歯。