「平気で夫を見限る女たち(抜書) - 小浜逸郎」死にたくないが、生きたくもない。から 

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「平気で夫を見限る女たち(抜書) - 小浜逸郎」死にたくないが、生きたくもない。から 

「遺棄」された男たち

しばらく前に、テレビのドキュメンタリーで、千葉県松戸の築四十五年を迎える団地に千五百人もの中高年男性が独居し、仕事もろくろくないまま毎日を呆然と過ごしている有様が放映されたことがある。(NHKスペシャル『ひとり団地の一室で』二〇〇五年九月放映)
年齢層の中心は、四十代から六十代前半。家賃が安いので、吹き溜まりのように集まってきたものと思われる。失職し、妻や子どもたちにも逃げられてしまったのだろう。
要するに、一種の「遺棄」された男性群である。ホームレス寸前といっても過言ではない。
この男性群を何とかしようと古くからの住民が自治会を中心に、孤独死予防センターを設置し、いろいろなはたらきかけを行っている。興味深い(といっては不謹慎だが)のは、スタッフたちの年齢が、当の男性群よりも高く、七十代以上だということである。
ある男性は、家中をゴミの山にして足の踏み場もないようにしているので、お婆さんがゴミ片づけにやってくる。
別の男性は求職活動のためか生活保護障害年金の給付を受けるためかで公的機関を訪れのに、わざわざお爺さんに付き添ってもらっている。
また別の男性は、ひきこもったきりで孤独死の心配があるので、新聞がたまっていたりすると、「何々さん、大丈夫ですか!」と年長世代の人たちに外からドアを叩かれる。
予防センターでは、彼らを社会に少しでも復帰させるための相談窓口を設置している。長く続いた不況という社会背景を考えれば、それ自体はさほど衝撃的な光景とは言えないかもしれない。昔なら、山谷や釜ケ崎のような地区は全国の大都市にごろごろしていたし、ホームレスはいまでも山ほどいる。低所得階層が安価な賃貸住宅に集中したというのは、自然の成り行きとも言える。

 

五十、六十は「まだまだ若い」?

ただ、よくも悪しくも映像の力は強い。この番組がもたらしたインパクトは、大きく言って三つある。
一つは、一般に、現在の五十代から六十代の男性は、それより年長の世代に比べてかなりきつい目に遭っているのではないかという点だ。
年長の世代は、よく言われるように、終身雇用、年功序列の企業慣行にうまく乗り合わせて、かなりの退職金や年金を手にすることができた世代である。つまり彼らは、経済的な意味では、比較的うまく「老後」の設計を立てることが許されたのだ。
しかしリストラの波をもろにかぶった五十代から六十代は、一度その憂き目に遭うと、なかなか社会的な復帰が難しい局面に立たされている。団塊世代の人口の厚さも手伝ってか、思うような就職口が見つからない。福祉の恩恵にあずかろうてすれば、「あなたはまだまだ若いのだから自力で働き口を見つけて更生しなさい」と冷たい扱いを受けてしまう。
この事態は、まさに人生八十年時代になったからこそだと言える。本当に「まだまだ若い」のか?体はけっこうガタがきているというのに。
もう一つは、「逆縁」ではないが、老人世代に中高年世代が「ケア」をしてもらっているという奇妙さだ。こういう現象は、かつてあまり考えられなかったのではないか。そして、これからは、いくらでもこうしたことが見られるようになる可能性が高い。
たとえば、六十歳になって脳梗塞で倒れた息子の面倒を、八十五歳の母親がみる。失職したり妻に離縁されたりした五十五歳のオヤジが、落ち込んでひきこもり、そこそこ財産のある父親の世話になる。ぶらぶらして無為に過ごす不良中高年が増える。そんな光景があちこちで観察されるようになるかもしれない。

 


オヤジ三人の道連れ心中

さらにもう一つは、いわゆる「女子ども」が、さえないふつうの中高年男性をにべもなく見限る可能性がある。いったい、この番組に現れた男性群の妻たちは、どこへ行ったというのだ!?
もう何年も前の話になるが、事業に失敗した中小企業の社長が三人揃ってラブホテルで自殺した事件があった。いい年をしたオヤジが道連れ心中をしたという話は、それまであまり聞いたことがなかったので、けっこうショックだった。
私がそのとき考えたのは、経済的な困窮状態が心中死を招くという場合、もっと昔だったら家族単位で行われたのに、いまではそうならないのかということだった。
貧困からの親子心中や一家心中は、大正から昭和の初期にかけて隆盛した。戦後もけっこうあったゆうだが、高度成長以降は、ほとんど聞かなくなった。バブル崩壊以後の不景気の期間でも、経済的な困難を理由に家族がまとまって心中するという事件はあまりみられなくなってしまった。
さて、このことがかなりの確度をもって言えるとして、ここには、中高年女性の家族意識の変化が読みとれないだろうか。熟年離婚が増えていることからも想像できるように、多くの女性は、甲斐性のない配偶者をわりあい簡単に見限るようになってきているのだと思われる。
熟年離婚の場合、女性が経済力を身につけたことが大きな要因の一つとなっているだろう。しかし変化は経済的な側面にとどまらない。ここで注目したいのは、現実的な破綻にまで至らないケースである。中高年男性が仕事で失敗して困り果てたとき、それにどこまでも連れ添う気持ちが女性のなかで希薄になっている。たとえ離婚しなくても、女性は長年連れ添った配偶者を心理的にやすやすと見捨てていることが多いのではないか。

無意識の復讐

私と同年輩の知人(彼は仕事に失敗したわけではない)で、専業主婦の奥さんがバイオリン教室に通い、それが高じて、本場で修練を積むために教室ぐるみでウィーンに何ヵ月か滞在した人がいる。知人は、仕方なくそれを認めた。ところが、帰国してからも、それまで何となくあった夫婦の距離は埋まらず、奥さんは、息子さん夫婦に孫ができたのをきっかけに、そちらの家に入り浸ってしまったという。知人は、自分たちの長い履歴はそんなに簡単に清算できるものなのかと悩んでいる。
先に挙げた、男同士で自殺してしまうというのはあくまで特異例だろう。しかし、中高年男性の自殺が増えている事実と、一家心中がみられなくなった事実とを付き合わせてみるとき、そこに、中高年女性が家族一体感を希薄化させているという傾向が浮かび上がってくる。
男が仕事がらみで死ぬか生きるかの瀬戸際に立たされても、いまどきの妻はどうも、「死ぬなら家族みんなで一緒に死のう」とか、「あなたがそんな窮地に立たされているなら私が何とか支えるからどうか死なないでちょうだい」などとは発想しないようである。
そんなこと、いまごろ気づいたの、とフェミニストの女性などからからかわれそうである。
しかし、女性の見限り意識は、男性の側の無意識の反転した鏡でもある。おそらく、家族メンバーの意識と無意識における個人主義的な傾向は、男女を問わず、もうずいぶん前から進んでいるのだ。その心理的な現実をまずお互いが認め合わないと、相手に対する期待感情は空を切ってしまうだろう。
それにしても夫を見捨てた中高年の妻たちはどこへ行ってしまったのか。
平均像として思い浮かぶ確からしい線は、別にその多くが男に走ったわけではないし、夫と同じように自殺したりひきこもったり酒に溺れて困り果てたりしているのではないということである。
(以下割愛)