(巻三十)二の足を踏む誘はれし岩魚釣(茨木和生)

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(巻三十)二の足を踏む誘はれし岩魚釣(茨木和生)

8月6日金曜日

掃除、洗濯、風呂排水口の洗浄、布団干し、生協への買い物で午前を終わる。

棺に入れてもらうつもりで句や歌を書き留めている黒手帳がほつれてきた。バックアップはあるが、書き足す頁があまり残っていない。およそ五千句歌だから巻き直せばよいのだが、しっかりした黒手帳がなかなか見つからない。バラバラになっていく手帳も安くはなかったが、罫線だけの厚手の黒手帳の良質なものがなかなか手に入らない。今度都心に行くことがあったら丸善や伊藤屋で探してみよう。

菊添えてそつと手帳を棺の底(宮万紀子) 

もっとも、勝手に棺に入れてもらうつもりでいても、当てにはできないし、入れてもらえたとしても役に立つわけではない。

死後などはなし凍裂の岳樺(高野ムツオ)

夕方散歩、図書館で返却と貸出。Lawsonでアジフライで路酎。

本日は四千三百歩で階段は3回でした。

願い事-叶えてください。『生きていたくもないが、死にたくもない』という本があったが、そういうことだ。死ぬときは楽に逝かせてください。遺志というのはありません。無駄ですから。

戒名を故人は知らず草の花(中村栄一)

> 「「地図を持て-『リア王』 - 松岡和子」ちくま文庫 「もの」で読む入門シェイクスピア から

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> 東京・新宿駅の地下コンコース。かつて青島都知事の権限によって強制退去させられたあとも、いつの間にか再び段ボールがずらりと並び、ホームレスのおじさんたちの団地と化した時期がある。当時、彼らの住まいは、それなりに思い思いの工夫がしてあり、ささやかながらインテリアを飾ったものまであって、通りがかりについ眺めては感心したものだ。たとえば、ゲームセンターのUFOキャッチャーで取ってきたらしい縫いぐるみの人形が、表札よろしく掛かっていたり。そんな様子を目にして、「シェイクスピアの言っていることはホントだなあ」と感じ入った。

> 老齢に達した古代ブリテンの王リアは、王位と王国を長女ゴリネルと次女リーガンに譲り渡すことになり、悠々自適の余生を送るつもりだったのだが、彼女たちの手ひどい裏切りに遭う。

> まず、ゴリネル。ひと月ごとに二人の娘のそれぞれの城に身を寄せるはずが、二週間とたたないうちに、彼女は父親を粗略に扱い、リアに仕える百人の騎士も五十人に減らしてしまう。怒り心頭のに発したリアは、グロスター伯爵の城に逗留しているリーガン夫妻のもとへと馬を走らせる。

> ところが、リアの期待に反してリーガンは、旅の疲れを口実に父に会おうともしない。ようやく夫とともに姿を現した彼女は、姉を非難するどころか、騎士の数もさらに半分でいいと言い放つ。そして、止めの一撃とも言うべき一言 - 「一人だって必要かしら」。

> リアは叫ぶ - 「必要を言うな。どんなに卑しい乞食でも貧しさのどん底に何か余分なものを持っている」。

> 私がホームレスの段ボール・ハウスを見て「ホントだなあ」と思った「シェイクスピアの言っていること」とは、第二幕第四場のリアのこの台詞なのである。

> もちろん、ホームレスのおじさんたちは物乞いをしているわけではないのだから、この台詞が丸ごと当てはまると言っては失礼だろう。だが、お世辞にも物質的に豊かとは言えない彼らが「何か余分なもの」を持っていることは、かつての新宿の地下団地が証明している。

> リアもまたホームレスになってしまうのだが、そうなる前の彼は「持てる者」だった。なにしろ国を丸ごとひとつ持っていたのだ。これを凌ぐ「持てる者」があるだろうか。しかもリアは、明らかにブリテン王国をおのれの私物とみなしている。

> 『リア王』というと、おそらく誰もが冒頭の国譲りの場を思い浮かべるのではないだろうか。三人の娘たちへの問いかけ - 「お前たちのうち、誰が一番父を愛していると言えるかな?」。言葉によって愛情を、言わば計量化しようとする愚を、リアはおかす。

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> ゴリネルとリーガンは美辞麗句を弄して孝行娘ぶりをアピールするが、末娘のコーディリアは巧言令色を是[よし]とせず、子としての義務を果たすだけだと言葉少なに言う。リアはコーディリアの真意が読めず、勘当する。

> 愛情の計量化と言ったが、その見返りもまた広い意味で「測れるもの」、国土である。

> この悲劇における主人公リアのほぼ開口一番の台詞(もう少し厳密に言うと、彼の全台詞の第三行目)は「地図を持て」である。

> ゴリネルの返事のあと、彼は「この線からこの線に至る地域はすべて(中略)お前のもの」と言い、リーガンの答えのあとでは「我が王国のこの肥沃な三分の一」を与えると言う。「この(This)」という指事語があるので、シェイクスピアはリア自らが地図を示しながら言うことを前提にして(というより、そこまで演出して)これらの台詞を書いたのだろう。まるでケーキでも切り分けるような具合。一国の私物化もいいところだ。

> シェイクスピアがこの戯曲を書くに当たり下敷きにしたとされる材源[ソース]のひとつは、作者不詳の劇『レア王とその三人の娘の実録年代記』である。三人の娘たちの名前はゴノリル、レイガン、そしてコーデラ。『リア王』とは違って三人とも未婚であり、国譲りと婿選びが同時に行われる。グロスター伯爵父子を巡る副筋、道化、リアの狂気、なども材源のほうにはない。最も大きな違いは、『レア王』がハッピーエンドであることだ。

> それはさておき、シェイクスピアはこれ以外にもジェフリー・オブ・マンモスの『ヒストリア・アングリカーナ』、ホリンシェッドの『英国史』、ジョン・ヒギンズの『王侯の鑑』などにあるリア(レア)と三人の娘の物語を参考にしたとみなされている(副筋のほうの種本はフィリップ・シドニーの『アルカディア』)。これらすべてに国譲りの場があるのだが、面白いことにどのひとつにも地図は出てこない。この古い物語に地図を持ちこむのはシェイクスピアの発案ということになる。彼の劇団ではどのくらいの大きさでどんな材質の地図を小道具として使ったのだろう。時代背景を考えて革にしたのだろうか。十六世紀末にはエングレーヴィングによる英国全土の地図がすでに出版されていたそうだけれど。

> 最近の舞台ではこの地図の表現もヴァラエティに富んでいる。一九八九年の春、東京のグローブ座で上演されたルネサンス・シアター・カンパニーの舞台(ケネス・ブルナー演出、およびエドガー役。エマ・トンプソンが道化を演じた)では、一見土のように見える材質が床を覆い、そこに地図が描かれていたと記憶している。傑作だったのは、一九九〇年九月に来日したロイヤル・ナショナル・シアターのそれ。演出のデボラ・ウォーナーは、ブライアン・コックスが演じる稚気あふれる老王に、大判の紙の地図をはさみでジョキジョキ切らせた。ケーキを切り分けるより無造作で、いかにも気紛れな国土分割。

> さすがはシェイクスピア、国家という大きなものから主人公の性格までを効果満点に表わすいい小道具を考えたものだ。