「私鉄沿線に現れた住宅(憧れのライフスタイルの出現) - 原武史」新潮文庫「鉄学」概論 から

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「私鉄沿線に現れた住宅(憧れのライフスタイルの出現) - 原武史新潮文庫「鉄学」概論 から

戦後、首都圏や大阪圏の鉄道沿線の住宅事情に転機をもたらしたのは、「団地」の出現である。
その建設を担ったのは、都府県や都府県の住宅供給公社のほか、一九五五年(昭和三十)七月に発足した日本住宅公団(現・独立行政法人都市再生機構)であった。公団は戦後の慢性的な住宅不足を解消すべく、十年間で四百七十九万戸の大規模集合住宅「団地」を建設する計画を立てた。
最初期の公団住宅は翌一九五六年入居開始の金岡[かなおか]団地(大阪府堺市)、牟礼[むれ]団地(東京都三鷹市)などだが、前者は九〇〇戸、後者は四九〇戸とまだ規模は小さかった。しかし関西では五八年(昭和三十三)、総戸数五二一四戸の香里[こうり]団地(大阪府枚方[ひらかた]市)への入居が始まって以降、また関東では五九年(昭和三十四)、総戸数二七一四戸のひばりヶ丘(ひばりが丘)団地(東京都北多摩群保谷町〔現・西東京市〕、田無町、久留米町〔現・東久留米市〕)への入居が始まって以降、大規模団地の時代に突入する。いずれも、全戸賃貸であった。
六〇年には新京成線沿線に常盤平[ときわだいら]団地(千葉県松戸市、総戸数四八三九戸)、六二年には東武伊勢崎線沿線に草加松原団地(埼玉県草加市、総戸数五九二六戸)がそれぞれ建設されたのをはじめ、西武、東武新京成など私鉄各線の沿線には、総戸数一〇〇〇戸以上の大規模団地が、五〇年代後半から六〇年代後半にかけて数多く建設された。西武の新所沢(二四五五戸)・東久留米(二二〇八戸)・小平(一七六六戸)・都営村山(五二六〇戸)・清瀬旭ヶ丘(二〇七〇戸)・滝山(三一八〇戸)、東武の花畑(二五九七戸)・武里(六一一九戸)・西大和(一四二七戸)・霞ヶ丘(一七九三戸)・上野台(二〇八〇戸)、新京成の高根台(四六五〇戸)・習志野台(二三六一戸)といった団地である。
これらのうち、最大規模ではないが、首都圏の大規模団地のさきがけとして、そして何より皇太子夫妻が視察に訪れた団地として、全国に名を知られたのが「ひばりヶ丘団地」であった。「ひばりヶ丘」という平仮名まじりの名称は、公団の命名による。こうした「平仮名+ヶ丘」という地名は、現在では別段目新しいものではないが、当時は京王線に「つつじヶ丘」(一九五七年、「金子」から改称)があるくらいで、新鮮なものであった。住宅公団も、「最高の環境と最高の内容を誇るトップクラスの大団地」のイメージに合うネーミングとして考えついたのであろう。
ひばりヶ丘団地は中島航空金属田無製造所の跡地に建設され、最寄り駅は西武池袋線の「田無町」であった。その駅名が団地のできた年に「ひばりヶ丘」に改称された。この駅名改称により、本来、同じ駅が最寄りであるはずの南沢学園町は、ますます影が薄くなった。
その三カ月前には、西武新宿線の「北所沢」が、新所沢団地の完成に合わせて「新所沢」に改称されていた。つまり一九五九年には、公団の決めた名称にならって、西武が二つの駅名を変えたわけである。それはまさに、西武沿線を代表する住宅地は公団の団地であると表明したに等しかった。

同様の駅名改称は、当時、西武以外の私鉄でもあった。
たとえば新京成は、常盤平団地の完成に合わせて、金ヶ作駅を「常盤平」に改称し、高根台団地の完成に合わせて「高根公団」駅を新設した。また、東武草加松原団地と武里団地の完成に合わせて、伊勢崎線に「松原団地」駅と「せんげん台」駅を新設した。さらに小田急は、百合ヶ丘団地の完成に合わせて、「百合ヶ丘」駅を新設している。これらの団地は、すべて公団が建設したものである。今となっては想像もつかないが、わざわざ団地にちなんだ駅を開業させることで、沿線のイメージを高めることができたのが、この時代なのである。
しかし、そう考えても不思議ではないくらい、団地とは新しく素晴らしい生活を保障するもののように見えたことも事実である。それは火事や地震に強い鉄筋コンクリート製であるうえ、ステンレスの流し台やスチールサッシ、水洗トイレ、ガス風呂、あるいはプライベートな空間を完全に保証するシリンダー錠など、当時の東京で一般的であった長屋形式の木賃アパートではあり得ないような最新式の設備を完備していた。
その点で、一九六〇年九月、訪米直前の皇太子夫妻がひばりヶ丘団地を訪問したことの意味するところは、なかなか大きい。そこにあったのは、一言で言ってアメリカ型ライフスタイルを目指すというベクトルの共有である。団地とは、従来の日本の住宅とは違うプライバシーの観念が確立し、ダイニングキッチンに置かれたテーブルで椅子に座って食事をし、洗濯機や冷蔵庫、掃除機にテレビといった家電製品も完備した家が多かったという点から言えば、占領期にはまだ手に届かぬ理想であったところのアメリカ的なライフスタイルを送れそうなところであった。また、団地に隣接して、当時は少なかったスーパー「西武ストアー」もあった。
そこでは、敗戦後の日本人が憧れた、ワシントンハイツ(現・代々木公園)やグランドハイツ(現・光が丘パークタウン)などでの連合国軍(実質的にはアメリカ軍)の将兵の生活というものが具現化しているように思われた。この時点では、戦後十五年を経て、ようやく日本もアメリカ並みの快適な生活に近づいたという思いを、皇太子夫妻から庶民までが共有していたわけである。
六〇年九月に皇太子夫妻がひばりヶ丘団地を訪れたことで、ひばりヶ丘団地は一躍有名になった。戦前は大泉学園都市、小平学園都市の建設に失敗し、戦後しばらくは糞尿輸送までしていた西武は、沿線に一定以上の所得がなければ入居できない最先端の公団住宅=団地が次々にできることで、客層ががらりと変わり、イメージも上がっていった。