(巻三十)卒業名簿筺底(きょうてい)にして小吏なり(野口喜代志)

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(巻三十)卒業名簿筺底(きょうてい)にして小吏なり(野口喜代志)

8月26日木曜日

蓋あけし如く残暑の来たりけり(星野立子)

ということで、当地は今年二度目の猛暑日になったが今年はまだ二度目か?という感もある。暑い日は乾きが早いのでカーテンの洗濯が慣例化し、今朝も3枚洗ってベランダの手摺に干した。10時ころ生協へ参る。ちょうどそのころに品出しが終わり賞味期限が先の商品が並ぶ。私は賞味期限には拘らず、期限が切れていようが平気だが、彼奴は後ろから下の方からと反社会的なくらい賞味期限に五月蝿い。米(2キロ)、パン、牛乳、ヨーグルト、ぶどう、胡瓜2本、キャベツ4分の1、ミニトマト、を買い、帰る道々食べる草餅(賞味期限間近の20%引きのもの)を買う。すでに街は暑いが、風に救われる。

救う気で掬う夜市の屑金魚(西村克彦)

昼寝は扇風機までで、エアコンは使わないで済んだ。

4時45分ころ、排尿時にコロンと石が出た。7月29日から2日間、8月10日から2日間、痛みを感じていた。この他にも潜んでいるのだろうか?X線では見えず、管も膨らんではいなかったから、流れは確保されていたのだろう。

石拾ふことに始まる畠打ち(太田英友)

夕方の散歩。白鳥のファミマでメンチで開通祝いを致す。旨し!

本日は三千七百歩で階段は4回でした。

願い事-スッパリと叶えてください。“麒麟”のように。

> 「猫の死について - 村上春樹新潮文庫 村上朝日堂の逆襲 から

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> 先日、飼っていた猫が死んでしまった。この猫は村上龍氏のところから来たアビシニアンで、名前は「きりん」といった。龍のところから来たので「麒麟」という名をつけたわけである。ビールとは関係ない。

> 年齢は四歳で、人間でいえばまだ二十代後半か三十歳くらいだから、早死にである。この猫は膀胱に結石がたまりやすい体質で、以前にも手術をしたことがあり、食事はいつもダイエット・キャットフード(というものがこの広い世界には存在するのだ)を与えていたのだが、結局膀胱をこじらせたのが命とりになった。業者に火葬してもらい、そのお骨を小さな壺に入れて、神棚においてある。僕が今住んでいる家は古い日本家屋で神棚がついているから、こういうときはとても便利である。新しい2DKのマンションなんかだと猫のお骨を置く場所を見つけるのが大変そうである。ちょっと冷蔵庫の上に置いておくというわけにもいかないしね。

> 僕のところにはこの「きりん」の他にもう一匹十一歳になる雌のシャム猫がいて、名を「みゅーず」という。この名前は名作少女漫画『ガラスの城』の登場人物からとった。その前には「ブチ」と「サングラス」という『明日に向って撃て!』のコンビから名をとった二匹の雄猫がいた。いっぱい猫を飼うといちいち名前を考えるのが面倒なので、だいたいはきわめてイージーなネーミングをする。一時は「しまねこ」という名のしま猫を飼っていたし、「みけ」という名の三毛猫がいたこともある。スコティッシュ・フォルドという種類の猫を飼ったときは「スコッティー」という名前にした。こうなると当然派生的に推測できることだが、「くろ」という名前の黒猫が寄宿していたこともある。

> この十五年間に我が家に去来した猫たちが辿ったそれぞれの運命を表にしてみると、

> A(死んだ猫)

> ①きりん②ブッチ③サングラス④しまねこ⑤スコッティ

> B(人にあげた猫)

> ①みけ②ピーター

> C(自然にいなくなった猫)

> ①くろ②とびまる

> D(現在残っている猫)

> ①みゅーず

> ということになる。考えてみれば家の中に一匹も猫がいなかった時期はこの十五年間にほんの二カ月ほどしかないのである。

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> これはまああたりまえのことだけれど、猫にもいろんな性格があって、一匹一匹それぞれ考え方も違うし、行動様式も違う。今飼っているシャム猫は僕に手を握ってもらっていないとお産ができないという実に変わった性格の猫である。この猫は陣痛が始まるとすぐに僕の膝にとんできて「よっこらしょ」という感じで座椅子にもたれるような姿勢で座りこむ。僕がその両手をしっかりと握ってやると、やがて一匹また一匹と子猫が生まれ出てくるのである。猫のお産というのは見ているとなかなか楽しいものです。

> 「きりん」はどういうわけかセロファン紙を丸めるときのくしゃくしゃという音が大好きで、誰かが煙草の空箱を潰したりするとどからともなく脱兎のごとくとんできて、ごみ箱からその箱をひっぱりだして、十五分くらいは一人で遊んでいた。いったいどのような経緯を経てこのような傾向になり癖なり嗜好なりが一匹の猫の中に形成されていくのかはまったくの謎である。

> この猫は元気がよくて固太りした食欲旺盛な雄猫で - このへんの描写は村上龍氏のパーソナリティとは無関係 - 性格も開放的で、うちに来るお客にはなかなか受けが良かった。膀胱の具合が悪くなるといくぶん元気がなくなりはしたが、前日まではとてもそのまま死んだりするようには見えなかった。近所の獣医さんのところにつれていってたまった尿を抜いてもらい、結石を溶かす薬を飲ませたのだが、一夜明けると台所の床にうずくまって目をぱっちりと開いたまま冷たくなっていた。猫というのはいつも実にあっさりと死んでしまうものである。あまりにも死に顔がきれいだったので、日なたにそのまま置いておけば解凍されて生き返るんじゃないかという気がしたほどだった。

> 午後にペット専門の埋葬業者の人がライトバンで猫をひきとりにきた。映画『お葬式』に出てくるようなきちんとしたなりの人で、いちおうお悔やみを言うわけだが、これは人間相手の悔やみの科白を適当に簡略化したものと考えていただければ良い。それから料金の話になる。火葬骨壺のコースは壺代が入るので二万三千円である。ライトバンの後部荷台にはプラスチックの衣装ケースに入れられたドイツ・シェパードの姿も見える。たぶん「きりん」はそのシェパードと一緒に焼かれることになるのだろう。

> 「きりん」がそのライトバンで運び去られてしまうと、家の中が急にがらんとしたような気がして、僕もつれあいもあとに残された猫もどうも落ちつかなくなってしまった。家族というのは - たとえそれが猫であっても - それぞれにバランスをとりながら生きているものであって、その一角が欠けるとしばらくは微妙に調子が狂ってしまうものなのである。家にいても仕事にとりかかれそうもないので、横浜にでも遊びに行こうかとしょぼしょぼと降る雨の中を駅まで歩いたのだが、それもなんとなく億劫になって途中で帰ってきてしまった。

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> *今は「みゅーず」と「コロッケ」という猫を飼っています。「マイケル」とか「小鉄」とかっていう名前の猫は全国にけっこう沢山いるんだろうな。

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