「趣味に生きても虚しい(抜書) - 小浜逸郎」死にたくないが、生きたくもない。から 

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「趣味に生きても虚しい(抜書) - 小浜逸郎」死にたくないが、生きたくもない。から 

悠々自適は素晴らしいか

リタイアしたら趣味に生きればよいという声がある。また、そうしたいと思っている人々もたくさんいるようだ。
企業のため、家族のために仕事一途で生きてきた人が、自分の前半生を振り返って、「これからは自分の好きなことをしたい」と思う気持ちはよくわかる。「悠々自適」という言葉が、なにやら素晴らしいことのように、あこがれの感情を伴って人の口の端[は]に上る機会が多くなった。
しかし、「悠々自適」というのは、あこがれられているほど素晴らしいことだろうか。第一に、財産がいくらあったら悠々自適が可能なのかという基準、尺度がない。そのため大方の人は、多少の小金があったとしても、経済的な不安からそれほど自由にはなれないだろう。趣味に生きることができる人など、一部のエリート老人に限られるのではないか。
また、子孫に美田を残す気などないという個人主義的な考え方の人が増えている。だが同時に、その同じ個人主義的な傾向の表れとして、体が利かなくなったときになるべく子どもに迷惑をかけたくないという人も増えている。体が利かない期間が長引けば長引くほど、経済的な保証が必要とされる。子どもの世話になるにせよ、施設で老後を過ごすにせよ、先立つ物は金である。
世の中はせちがらい。たとえ子どもの世話になる場合でも、子どもの側にしてみれば、親の財産を当てにできるのとできないのとでは、世話をする意識が大きく違ってくるのは当然である。
そして、これからは、そういう期間がどれくらいの長きにわたるのかを、不安と共に展望しておかなくてはならない時代なのだ。大多数の高齢者にとって、「悠々自適」の心境に安息していられる状態はやってくるとは思えない。
私がこれに加えて指摘したいのは、次のことである。
人間はすぐ退屈する動物であり、自分のやっていることの「意味」を考えてしまう動物である。趣味に生きるといっても、そんなに一つや二つの趣味に没頭して長い年数を明け暮れる人がたくさんいるだろうか。「意味」が実感できなくなったとき、どうすればよいのだろうか。
そば打ちをやろうが、山歩きに精を出そうが、短歌サークルに属そうが、土をいじろうが、そこで得られる満足感は、ある年齢以上になればたかが知れている。
また競争心をかき立ててくれるような趣味であっても、しょせん大部分はアマチュアの域を出ない。これから一芸に秀でることができる人など、ごくわずかぬすぎない。
それを悟ったとき、満足感を持続させられるだろうか。しだいに募ってくる虚しさをうまく押し殺せるだろうか。
私は、自分がほとんど無趣味なので、ずいぶんひねくれたことを言っているのかもしれない。おそらくそのとおりであって、私には、趣味に熱中できる人の気持ちがよくわからないところがある。
それでも若いころはいくつかのことに手を染めてみたが、だいたい二年くらいで飽きてしまう。これから何かをやり始めてみても、もっとその傾向が出てくるのではないかと思う。
趣味に熱中できる人が心底羨ましい。だから、そういう人々に水を差そうという気は毛頭ない。しかし私のような人も世の中にはけっこういるのではないかと思うのである。

 

趣味に漂うもの悲しさ

いったいに「趣味」という営みには、どこかしら根源的な「寂しさ」「もの悲しさ」が
漂っている、と感じるのは、私だけのひねくれ根性がなせる技だろうか。
好奇心旺盛な子どもや青年のころは、ある程度まで何かの趣味に没頭できる。「遊びをせむとや生まれけむ」というのは子どもの特質の一つである。だから、後先顧みずに何かに飛び込んで、気づいてみたら、けっこう「病膏盲[やまいこうもう]」の境地にたどりついていたということが多かれ少なかれあるだろう。
しかし、およそ趣味というものは、余暇として与えられた時間を埋める試みであり、孤独を慰める営みである。趣味が高じて仕事になってしまう場合は別だが、仕事にはならないから趣味なのである。仕事にはならないということは、社会への基本的な開かれとは別の領域でそれを追求するほかはないということだ。
趣味は、直接的には、他者とのかかわりをめがけず、何らかの「事物」をめがける。だからおよそどんな趣味でも、やろうと思えば一人で追求できるのである。
麻雀やゴルフや囲碁将棋や社交ダンスのように、一見相手がいなくては意味がないと思えるような趣味でも、一人の世界に入り込むことを許す。それが仕事ではなく趣味であるというまさにそのことのために、「仮想空間」を設定できるからである。
人間の本来の営みとは何か。恋愛や結婚生活や労働である。趣味は、これらの本来の営みの外側にある。それは、あくまでも生活の中心からは浮き上がっている。
と、こう言えば、当然、次のような反論が返ってくるだろう。
何を言っているのだ。人は何かの趣味を通して人間的な出会いを実現できるではないか。現にあらゆる同好の士の集まる場所に人は群れ集い、じっさいに豊かな人間関係をたくさん得られているではないか。趣味が楽しいゆえんは、それを通して、人との出会いがあるからこそなのだ......。
これはまったくそのとおりである。私は、多くの趣味にはそうした効用があること、人が結局はそういうことを求めているのだという事実を全然否定しない。そういうことが実現できる人、持続でかる人はそれでいい。けれども、それとてもそう簡単ではない。
まず第一に、「人間的な出会い」なるものが変に高じて、マイナスの方向にこじれてしまうことも多い。だれもがうまく人間関係の距離を保てるわけではないからである。「あの人がいるために、このサークルはうまくいかない」等々。そうなると、群れ集うことから撤退しなくてはならなくなり、好きであったはずの趣味そのものにも嫌気がさしてしまわないだろうか。
また第二に、その趣味自体に飽きてしまったらどうするのか。
いろいろなことに手を出してみればいいじゃないか、そのうちに自分の身に合った、簡単には飽きないような趣味が見出せるかもしれないでしょうという意見も傾聴に値する。しかし、もともと無趣味であった人にとって、たやすくそういうものが見つかるかどうかが問題なのである。

 

漫然と過ごしたい人もいる

ぐずぐず考える前に、とにかくやってみることが先決だというのもそのとおりであろう。
けれども、無趣味の人というのは、永年無趣味で生きてきたことが習い性になっている。だから、あらゆるアイテムが等価に感じられて、それらのなかのどれか一つを選ぶということがなかなかできにくいものなのだ。
テレビや雑誌などの「趣味コーナー」は、「だれもが何かを追求している」ということを当然の前提としている。トピックに取り上げられるのは、料理、園芸、パッチワーク、温泉めぐり、水彩画、バント、その他いろいろ。
これは当然のことで、「特に趣味など持っていない人」などを取り上げても、番組として成立しない。趣味コーナーの番組では、こんなに面白く生きがいがあるということを売り文句にしなくてはならないからだ。
しかし特に趣味など持っていない人は、もともと「趣味に生きる」ことそのものに、先取り的に虚しさを感じてしまう人である。その種の人に向かって、これはこんなに面白いよといくら説得しても無駄だと思う。現に私は身近に、老いの境遇の寂しさを埋め合わせるためにいろいろなことに手を出してみたものの、どれに対しても情熱を感じられずやめてしまった人を何人か知っている。
この種の人は、空白の時間帯は、テレビを見ながらごろごろしていたり、ちょっと音楽を聴いてみたり、興味の湧いた本に手を出してみたり、静かに酒を飲んでいたり、時々は小旅行に出かけてみたり、散歩をしたりといった漫然とした過ごし方が性に合っているのだ。
だから、「趣味の生活の楽しさ」「趣味を通した人間的な出会いの素晴らしさ」などをいくら説いても、無意味である。勉強したくない子に勉強を無理強いしても逆効果なのと同じだ。彼らがにわかに活眼し生き生きと行動し始める、などということはない。彼ら自身もそんなことはしてほしくないと感じているだろう。
さらにこういうことも考えられる。
現役時代に趣味にせっせと精を出す人。そこには、忙しいからこそ、という逆説的な心理がはたらいていないだろうか。仕事に追いまくられて、自分を見失う。おれはいったい何のためにこんなにあくせくしているのかという切迫した思いが反転して、かえって余暇を精力的な趣味活動で満たそうとする。
こういう心理を反動形成という。
彼あるいは彼女は考える。「退職して暇になったら、そのときこそいままでじゅうぶんにできなかった趣味活動を存分にやろう」と。
ところが、現在多忙であることの反動形成としての趣味活動だから、退職したとたんに、その思いも同時に消える。これまで大事にしていた趣味からも離れてぼーっとしてしまうのだ。私はそういう例をじっさいにいくつか聞いたことがある。