「転居記 - 立原正秋」日本の名随筆別巻24引越から

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「転居記 - 立原正秋」日本の名随筆別巻24引越から

去年の九月、鎌倉の腰越海岸から藤沢の鵠沼海岸に越し、そしてこの七月に、鎌倉の山崎にささやかな山荘を建てて越してきたが、これで十七回移転したことになる。ここが終の棲家になるかも知れないし、もしかしたらまたどこかに移転するかもわからない。十七回の転居には、私なりに、それぞれの燃焼があった。肉親の冷酷さや友人のつれなさをみつめてきた季節もあった。高利貸しと裁判所で金利論争をやった年もあった。冷酷だった肉親は、私の文士としての虚名があがるにつれ態度を変えてきたが、彼らにたいする私の態度は昔と同じである。来る者は拒まないが、しかし私から彼らをたずねようとはしない。私の家をたずねてきた者には酒をだし、めしを炊く。しかし私が彼らを歓迎したことはいちどもない。
こうした経験と反省がともなうと、血のなまぐささがいやでも目につく。子を溺愛する親や、親を盲愛する子をみると、その醜さに、あんな人間は生きていてもしようがないではないか、と思う。これは憎悪ではなく視線である。
ここは山の上である。西に富士が見え、南は谷戸を隔てて前方にこちらと同じ高さの山がある。この山の向うの麓には長谷の町と由比ヶ浜海岸がある。東にも山があり、その山の麓には北鎌倉駅がある。歩いてに二十分ほどの距離である。北も山で、山の向うには大船の町がある。要するに交通不便な場所である。五年ほど前、ある不動産会社が山の斜面を利用して造成した宅地で、どういうわけか高台に売れ残った個所がいくつかあり、私は去年の夏のはじめにその一郭を求めた。建築資金は銀行と出版社から借りいれた。たずねてくる人は、この家を大きいと言うが、むだの多い家である。私は設計家の永松亘氏にむだな空間をつくってくれと頼んだ。ふるい知りあいである。むだこそ最大のぜいたくである、というのは幼時からの私の生活の信条になっている。文士のなかにはガソリンスタンドやアパートを建てて収入をふやし、会社の大株主である者もいる。合理的だというより、そんなにまでして金をためてどうするつもりか、という疑問がさきにたつ。文士は陋屋に餓死すべきだ、という説に私はさんせいしないが、といって金をためる文士はもっと醜悪である。これは節度の問題である。
私は宵越しの金は持たないという性格である。はいった額だけ使ってしまう。これでは困るからせめて家だけは残してほしい、という家人の希望で家を建てたが、設計家の永松氏は、私の性格をのみこんでくれ、希望通りのいくつかのむだな空間をつくってくれた。合理的な家に私は一日として棲めないたちである。

越してきてから自然の友人がかなり出来た。蛇や野鳥である。赤★蛇[やまかがし]と蝮がいる。青大将にはまだお目にかかっていない。縞蛇もいるはずである。小綬鶏、山鳩がよく飛んでくる。夜、書斎の障子をあけておくと、蝉や甲虫が飛びこんでくる。髪切虫なども飛びこんでくる。子供のころ私はこの昆虫をてっぽう虫とよんでいた。暁方、仕事を終えて床につくころには、野鳥が目をさまし、蝉がなきだす。日ざしが強いので、近くを毎日二十分も歩いて戻ると、かなり日やけする。二十分以上は歩けない。前年の秋、医者から肝臓がわるいと診断され、一時はひどく腫れていたが、最近またぐあいがわるくなってきたからである。しかし肝臓がわるいのは随筆にはなるが小説にはならない。 
書斎は八畳で、そのうち二畳が板の間、南と北側が障子である。北側の障子をあけると中庭をへだてた高台の崖に芒が風に吹かれている。芒のむこうは夏空と白い雲である。南側の谷戸のむこうね山の東側は葛ヶ原で、ここは春になると桜のさかりである。ここに居をさだめようときめたときの私の裡には西行の歌が何首か生きていた。
花にそむ心のいかで残りけむ捨て果ててきと思ふ我身に
わきて見む老木は花もあはれなり今いくたびか春にあふべき
まったく技巧のないこのような澄明な視線と心情が、としとともにこちらの心に滲みこんでくる。春になり目前の山の桜がながめられれば、と考えて私はここの土地を求めた。
山の上だから雑音がない。風の音ばかりである。深夜とか暁方には遠くから東海道線の踏切の警笛がきこえてくることがある。しかしそれは決してうるさい音ではない。音を運んでくるのは風である。
麓に、この土地を分譲した不動産会社が経営しているスーパーマーケットがあるが、家人の話では、よい品がなく高いそうである。そこて家人は息子の運転する車で鵠沼海岸まで週二回買いだしに行く。鵠沼海岸は高級住宅街だったのに物価がひどくやすかった。
私は家人のそんな話をききながら書斎のうらの芒をみていた。午後の日ざしのもとで芒の葉は東から西にむかってなびいていた。高台のせいか、朝と昼と夕方の風の吹きぐあいの差がはっきりしている。そして午前と午後のちがいも分明である。周囲に遮蔽物がないので影をあまり見ない。影のない風景というのはこちらの気持を疲れさせる。そのうちに庭がととのえば影が生じるだろうが、しばらくはこの状態ですごさねばならない。
私は、ここに越してきたら、なるべく文壇づきあいをしないようにしたい、と決めていた。これからは東京にもあまり出ないようにしたいときめている。今月はあの作品が良かった悪かった、だれがどうした、というような文壇独特のサロンとはもう縁を切りたい。そして、死後五十年ほどたってから、ひとつの作品がのこれば幸いだ、と私は思っている。