「リア王の内なる嵐(「ドラマと運命」から抜書) - 木下順二」日本の名随筆96運から

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リア王の内なる嵐(「ドラマと運命」から抜書) - 木下順二」日本の名随筆96運から

シェイクスピアの四大悲劇のうち、〈ドラマと運命〉の問題を最も凝縮した形で私たちに考えさせてくれるのは『マクベス』である。が、この作品については私はこれまであまりに何度も論じて来たから-というのは読者とは関係ない一人合点のいいわけで申訳ないが-きょうは、きょうは、今までほとんど書いたことのない『リア王』について考えてみよう。
誰でも知っているように、『リア王』の始まりはいってみればたわいないお伽噺である。なぜあんなばかげた話でシェイクスピアはこの悲劇の幕をあけたのか。私が思うにシェイクスピアは、これから始まる壮大な悲劇の発端に置いておかねばならぬ問題点を、現実性を与えるためになら必要であった長々しい描写を一切省いてかっきりと置いておく必要を感じたのだろう。頑固な老父、遺産相続、邪悪で阿★に巧みな姉娘たちとその逆の末娘-これは今日の日本においてさえ、説明ぬきで誰にでも分って貰える一つの物語のパターンである。十七世紀初頭の英国では、むろん一層そうであった。普通なら陳腐とされるそこのところを逆手に取ってシェイクスピアは、たぶん長い治世の中で多くの困難を見事に乗り越えて来たのだろう老王が、それさえ踏み出さなければよかった最後の一歩で、回れ右の利かない悲惨の中へ突入して行く瞬間を巧みに描いている。また登場場面は少ないのに極めて重要な役割を背負っているコーディーリアを、つまらぬ写実的な孝行娘としてではなく、観念の肉化された透き通るように気高い女性として描きだすことに成功している。
ただ『リア王』において、物語のあのパターンとは反対に、末娘のコーディーリアはついに幸福にならない。それはコーディーリアこそ最も自分を愛していると父親のリアが知ったとき、リアは既にコーディーリアを常識的な意味で幸福にしてやれる条件(=王位=権力)を放棄してしまっているだけでなく、狂気にさえなってしまっているからである。リアが狂気をくぐりぬけてやっと微かな正気を取り戻し、この世のものでないほどの深い愛をもってコーディーリアの顔を見つめたとき、コーディーリアはリアの腕の中で全くこと切れてしまっていた。そしてやがてリアもこと切れるのだが、このリアの死は、壮大な悲劇『リア王』の最後における、むしろ救いであるとさえいっていいのかも知れない。
リア王』のことを壮大な悲劇だと、短い行文の中で既に二度もいってしまったが、なぜ壮大でそれがあるかというと、根本的な理由は、リアの闘う相手が(普通の悲劇と違って)人間ではないというところにあるようである。もちろんリアはまず人間と闘う。脇筋のことはいま省いているが、当面リアの闘う相手は邪悪な二人の姉娘である。この二人のような存在こそものをいわせず押えつけ得る手段=王権をみずから放棄したいわば裸の老リアを、二人の姉娘はそれこそ思い切り翻弄して、考えられる極点まで侮辱しさいなみ踏みにじる。闘いの最後にリアは、ゴナリルとリーガンという名前を持った二人の娘、または二人の女として彼らを見ることさえ忘れさせられてしまうかと思えるほど、二人の凌辱はすさまじい。かくしてリアは、二人への怒りや恨みというところを突きぬけて、そのような人間なるものを生んだ肉体というものに対する嫌悪の情、さらには生命の根源に対する根本的な呪いを持つに至る。王者としての衣装、位階、秩序、それらのものを総て剥ぎ取ったあとに残る人間というものは何だという問いを持つに至ったといい換えてもいい。
その狂乱状態のまま、雷鳴と電光に色どられて大暴風雨の荒れ狂う原始の荒野のただ中にリアののたうつ第三幕が、当然のこの芝居のクライマックスだが、その大暴風雨は、決してただの演劇的効果としてそこにあるのではない。今世紀前半の英国で、シェイクスピア演出の集大成をしたグランヴィル・バーカーが、『リア王』の嵐は(音響効果や照明の問題ではなく)俳優自身によって演じられなければならないといったのは、外界の自然現象としてのそれではない、リア王の内なる嵐であるとこれをとらえたからの言葉である。
リア王』という芝居がどのように高く清らかで豊かな悲痛さをもって結ばれるかは、直接作品を読んで知られるがいいと思う。ここで私が舌足らずながらいいたかったのは、常識的な運命を超えたところでシェイクスピアが、根本的な〈運命〉の問題を考えようとした、その姿勢についてであった。