「業の深さ - 南木佳士」文春文庫からだのままに から

 

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「業の深さ - 南木佳士」文春文庫からだのままに から

狭い庭を広く見せるために、数年前、やや大きなイロハモミジを植えた。芽がふくらみ、枝にまで緑の気配が濃くなってくると、ようやく山国信州の永い冬が終わるのだと実感させられる。この春の新鮮な緑葉の群れが風にそよぐのを眺めて、いろんなものを見すぎたために疲れ果てた目を休めようと楽しみにしていた。
ある日、勤務先の病院から帰ってみると、そのイロハモミジが無残なまでに剪定の鋏やノコギリをいれられていた。妻の話では、となりの家の植木の手入れに来たなじみの職人さんが、ついでにやってくれたのだという。ここまでやるとは思わなくて、買い物から帰ってきたらこうなっていた、としょげている。
インフォームドコンセント(説明と同意)がまったく不充分だったのだな、と痛感した。職人さんは将来の樹形を考えて、若木のうちに無駄な枝を払ってくれたのだろうが、こちらは五年先の木の姿よりもこの春の新緑がいちばん大事だったのだ。五十代も半ばになれば、いまを快適に暮らす以外の欲はほぼ失せている。この見解の相違は、やはり互いの話し合いでしか妥協点を見いだせないはずだ。ならば、インフォームドコンセントの正確な意味は「話し合いと妥協」なのではないか。
翌朝は冷たい春の雨が降っていた。哀れなイロハモミジから目をそらしつつ、憂鬱な気分のまま雨具を着込んで自転車に乗り、研修医時代より三十年間勤め続けている総合病院に向かった。
千曲川を背にした九百床余の病院の、北と南を建物にはさまれて窓から空の見えない古い病棟で、呼吸器内科の責任医長として主に末期の肺がん患者さんたちを診ていた時期があった。
元気で外来に来た人が、半年もすると別人のように衰弱してゆく、呼吸困難が強い患者さんにはモルヒネを二十四時間持続で点滴する。それでも苦しがる人がいる。ベッドを取り囲む家族たちが、無言でこちらの目を見る。モルヒネの投与量を増やす。副作用で意識が低下し、呼吸が弱く、浅くなる。家族の一人が、呼吸だけ楽にして意識は晴明なままにできないのか、と詰問してくる。力なく首を振って返答する。ならば、東京から長男が来るまでなんとか人工呼吸器につないでもたせて欲しい。それは事前の話し合いの結論とは異なりますがいいのですね、と念を押してから気管内にチューブを入れ、患者さんにとっては無益な人工呼吸を開始し、数時間後、家族全員がそろったところで、いたりませんで、と頭を下げ、人工呼吸器を止める。
それまでに何度となく予後の悪さ、最期の看取り方に関して話し合いを重ねてきた家族でも、いよいよのときがくると多くの人たちがうろたえてしまった。こういう場に必要なのは巧みに状況判断をする者ではなく、ほんらい収拾できるはずのない状況そのものを引き受ける人物であり、その役は結局のところ主治医になった医師が担うしかない。医師とはそういう意味でいかにも業の深い仕事なのだといまでもかたくなに思い込んでいる。
百人看取っても、二百人の死者を病院の裏口から送り出しても、人の死には慣れなかったし、満足できる看取りなどというものも一件もなかった。
書いた死亡診断書が三百枚を超えたあたりから、見送る者であった自分の背に死の気配がべっとりと貼りつき、他者に起こることは必ずおまえにも起こるのだ、と脅迫してきた。すると、存在していることがたまらなく不安になり、明日を楽観できなくなった。
末期がんの患者さんを常に数人担当していたから、こんな精神状態では、患者さんを楽にするためよりも、自分が早く肩の荷を降ろしたくてモルヒネを大量に使ってしまうのではないかと心底恐ろしくなり、上司に懇願し、病棟の責任者の任を解いてもらって外来診療のみを担当し、今日に至る。
あれから十六年が経った。
小説を書き始めたのは、医師になって二年目あたりで、人の死を扱うこの仕事のとんでもない「あぶなさ」に気づいたからだった。危険を外部に分散するために書いていたつもりだったが、それは内に向かって毒を濃縮する剣呑な作業でもあったのだ。
現場で雑駁な状況を丸ごと引き受け、家族からも責められなかった医師を、のちに状況判断の巧者が机上で断罪できるものなのだろうか。医療現場を舞台にした小説を書きながら、いつもそう自問してきた。書くという行為は、業の深い仕事に携わってきた己への審問であり、未決の自覚は、医師として偉そうな発言をしようとするとき、ふいに喉元に湧き、わたしを窒息させる。
付記
二〇〇六年三月、富山県の病院に勤務する医師が癌や脳梗塞などの疾患で末期状態になった患者に付けられた人工呼吸器をはずしていた事実が明らかにされ、警察は事情聴取を開始した。遺族の訴えではなく病院側の公表であること、患者や家族からの評判はよい医師であったことも報じられ、末期医療に関する全国的な議論を巻き起こした。当時、地元紙に意見を求められ、エッセイのかたちでなら、と応じて寄稿した。この出来事からおよそ四年を経ての文庫化にあたり、状況の概要を記しておく(著者)