「都営新宿線は、私だけの名所に連れて行ってくれる(抜書) - 川本三郎」日本の名随筆別巻68下町 から

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「都営新宿線は、私だけの名所に連れて行ってくれる(抜書) - 川本三郎」日本の名随筆別巻68下町 から

浜町のひとつ東の駅は森下。いまやたいていのグルメガイドに載っているどじょうの伊せ喜と馬肉のみの家があるところである。下町、深川の中心地といっていい。路地と職人の家の多いところだが近年はマンションもふえた。森田芳光監督の「おいしい結婚」(一九九一年)では、斉藤由貴の結婚話を肴に、三人の中年男(小林稔侍、斉藤晴彦橋爪功)が、伊せ喜でどじょうを食べながら酒を飲む場面がある。新しい流行に敏感な森田監督にとっては古い深川が逆に新しく、おしゃれということなのだろう。それでもこのあたりは全体にしっとりと落着いていて藤沢周平の小説に出てくる職人や下級武士がいまでも住んでいそうな気がする。山本周五郎藤沢周平の江戸市井ものは「本所深川」という場所を抜きにしては考えられない。
このあたりをよく歩くようになったのも都営新宿線のおかげである。それまでは森下町の伊せ喜くらいしか縁がなかった。下町は夜が早いのも特色だが、森下町界隈も夜の八時を過ぎるとしんと静かになる。新大橋を越えた深川あたりを愛したのは何よりも永井荷風だが、近年では神田生まれのドイツ文学者高橋義孝が昭和三十九年に文藝春秋から出した町歩きエッセ-「わたくしの東京地図」のなかで、「本所」「深川」をつぎのように絶讚している。
「今日の本所深川は東京中でも有数の静かな地区ではないかと思う。がさつで殺伐なのは却って山の手線から中央沿線へかけての地区で、本所深川の町並は不思議としっとりと落着いた空気を漂わせている。自動車の交通量も非常に少く、道を行く人の顔つきも、新宿、渋谷、池袋あたりの盛り場でごった返している人間の顔つきなどに較べるとずっと落着いていて柔和である。これはきっとこの辺には東京の地の者が多いからなのだろうか」
「とにかくこれは私にとって悦ばしい大発見であった。本所深川なら威張って『東京』の町だということができる。くさくさする時には、この辺を散歩することにしようと深く心に極めた。こんどの戦争でもこの辺は滅茶苦茶にやられて、古く昔ながらの家は残っていないが、その戦後の家々にさえ東京のほかの土地とは違って何となくしっとりとしたものがある」。手放しの本所深川礼讚である。印象批評に過ぎないといえばそれまでだが、高橋義孝は森下町あたりを歩きながら、その静かな町の様子に本当に心がなごんだのだと思う。この文章が書かれてからすでに四半世紀が過ぎているが、いまでもなおこの記述は森下町周辺の町にあてはまるのではないか。

交通量の多い新大橋通りと平行して一本南にこのあたりとしてはにぎやかな商店街がある。東に走っている。高橋[たかばし]商店街である。ときに夜店も出る。門前仲町と並ぶ深川の繁華街である。この通りを東に行った森下四丁目、菊川三丁目あたりは昔は日雇い労働者相手の安い木賃宿が多くあったとこらとして知られている。旧町名は富川町。関東大震災の前、大正十一年には木賃宿は百を超えた。東京市全体の木賃宿の約四分の一にあたる。多くは二階建てで三畳、二畳の部屋が大半だった。その狭い部屋に二人、三人と同居していることもざらだったという。
若き日の石川淳の短篇「貧窮問答」(昭和十年)はこの旧富川町のいわゆるドヤ街を舞台にした風俗小説。貧乏書生の主人公「わたし」がヴィリエ・ド・リラダンの「非情物語」の翻訳の仕事を宿にこもって仕上げようと場末の木賃宿に部屋を借りる。それが旧富川町の木賃宿という設定。日雇い労働者(作品のなかでは「自由労働者」)や得体の知れぬ男女がたくさん登場する現代の市井ものである。
「深川森下から猿江へ向う電車道、伊予橋を渡った北側は赤い標柱に記してあるごとく菊川一丁目でこれは本所区、その停留所の前の角店が牛飯屋であるが、わたしのいる南側は深川区で、当時高橋三丁目と唱えるよりも旧名の富川町のほうが通りがよいであろう」
山谷のドヤ街と同じように富川町のドヤ街もよく知られていたのである。戦後も東京オリンピックのころまでは木賃宿があったという。
山本祥三という若い画家がいた。東京、とりわけ下町の風景をスケッチしていくのが好きで、昭和二十九年から三十二年にかけて、実によく東京の隅々を歩き、下町の工場、盛り場、橋などを丹念に描いた。しかし、子どものころから病弱で、昭和三十二年に二十九歳の若さで死んでしまった。この山本祥三が残した画集「東京風物画集」(一九八一年、雪華社)は、当時の東京の姿を描いた貴重なものだが、このなかに「高橋ドヤ街」という絵がある。「厚生館」という木賃宿が描かれていて、それは面白いことに客車の形をしている。廃客車を利用したもので一泊五十円だったという。このあたりにこういう木賃宿が多かったのは、隅田川とその堀割の水運で働く労働者のために作られたからである。菊川にはいまでも木賃宿をきれいにしたビジネス・ホテルが並んでいる一画がある。

都営新宿線新大橋通りの下を走っている。森下の次が菊川。菊川には大横川という堀割がかろうじて残っている。菊川の次が住吉。このあたりもよく歩く。浜町から新大橋、森下町、菊川、住吉と歩いてくるとこのあたりで疲れてくる。そこでビールということになるのだが、この住吉には一軒、実になんとも不思議な居酒屋がある。錦糸町に向かう広い通りに面している。黒光りする木造の建物でつたがからまっている。一見、廃家のように見えるが夕方ともなると灯が入り、縄のれんがぶらさがる。なかは「椿三十郎」で三船敏郎がよく出入りした居酒屋の雰囲気。ここの名物は焼はまぐりで、焼きたてのはまぐりの貝を木製の洗濯ばさみで挟んでふうふうさましながら食べる。ジューシイでおいしいから次々にたいらげていくと、おかみさんがあとからあとから焼いてくれる。気がつくと十個はぺろりと食べてしまっている。
はまぐりといえば昭和のはじめのころまでは深川蛤町(現在の永代二丁目あたり)という町名もあったくらいだから、昔はこのあたりの海(東京湾)でははまぐりがたくさんとれたのだろう。最近、B級グルメのあいだで人気が出てきた“深川丼”といえばご飯の上に焼はまぐりがのったものである。もっとも住吉の焼はまぐりの居酒屋のおかみさんの話では現在ではもう東京でははまぐりがとれるはずもなく三重県産のものだという。この店の前には“はまぐり塚”もあった。
森下町にはみやこという深川めしを食べさせる店がある。大正時代に創業した店である。ここの深川めしはあさりのむき身を、油揚げとネギといっしょに味噌で煮て、ご飯に汁ごとかけたもの。今日、深川めしというとあさりが主らしい。しかし、浅草生まれの池波正太郎はあるエッセーのなかで、深川めしははまぐりだと書いている。
「むかしの蛤は、庶民の食べものだった。飯に炊き込み、もみ海苔をかけて食べたり、葱と共に味噌で煮て丼飯へかけて掻き込む深川飯など、私も少年のころよくたべさせられたものだ」(「味と映画の歳時記」)
現在では残念ながらはまぐりの深川めしを食べさせる店はない。