「私が〈がん〉に罹ったら - 近藤誠」

「私が〈がん〉に罹ったら - 近藤誠」

*がんで死ぬのもそう悪くない

がんは国民死亡原因の第一位を占め、三人に一人ががんで亡くなっています。治る場合もあるのですから、がんにかかる人はもっと多く、国民の二人に一人程度が、人生いずれかの時点でがんと診断されるはずです。したがってわたしも、がんを発見され、がんで亡くなる可能性がそうとう高い。しかし、これまで多くの患者さんをみとってきた経験から、がんで死ぬのもそう悪くない、別の病気で亡くなるより好ましいのでは、と思っています。
なぜならばたとえは、ぼけて周囲に迷惑をかけつつ長生きするよりずっとましでしょう。死亡原因第二位の心疾患はどうかというと、心筋梗塞でぽっくり死ぬとは限らず、かりに生き延びたら、薬を飲め、食事に気をつけろ、アルコールはどうこうなどと担当医や家族にやかましくいわれるのもうっとうしい。それでいて、いいつけを守っても再発率・死亡率が高いのです。第三位の脳血管疾患にしても、あっさりは死ねずに麻痺が残ってしまった場合、日常生活は苦痛と悲惨にみちるでしょう。
それに比べがんならば、おおむね死の直前まで、ふつうに近い活動能力を維持できます。が、それには、対処法を間違えさえしなければ、という条件がつきます。これまで巷間伝えられてきた悲惨な闘病物語りのほとんどは、初回治療から臨終までのどこかで対処を間違った結果であるはずだからです。そこでここでは、わたしが予定している、がんへの対処法を紹介します。

 

*本当の病名を知る

がんにきちんと対処しようと思っていても、日本ではしょっぱなから壁にぶつかりがちです。本当のことを教えない医者がまだまだ多いので、自分の担当となった医者が病名をきちんと知らせてくれるかどうかが問題なのです。
患者本人が本当の病名を知らないと、困ったことが次々生じます。まず第一に、どの臓器のどの進行度のがんでも、たいてい複数の治療法がありますが、病名を知らなければ担当医と相談しながら選ぶことができません。自然、医者のいいなりになるか、家族が選ぶことになり、本人には不満がたまります。そしてがん治療には副作用や後遺症がつきもので、それらが生じれば不満は増幅し、医者や家族を恨む結果にもなります。
また再発や転移をみたときには、その事実はさらに告げにくくなるわけで、苦痛をとる治療の開始が遅れたり、不十分になりがちです。そのうえ、人生の最後をどう過ごすか、という問題にも影響します。後述する在宅医療やホスピスが好ましいとしても、本人ががんや再発の事実を知らなければ、そのメリットを享受することはかなり困難なのです。そしてなによりも、隠しごとをしているため後ろめたい気持ちになっている家族や友人と心が通いにくくなり、孤独地獄とでもいうべき状況におちいってしまうのが辛い。
そこでわたしの担当医がどう振舞うかを想像してみると、もし患者に真実を教えないのがその医者の流儀でも、わたしががんの専門医である点を重視して、本当のことを知らせてくれる可能性が高い。が、確実にそうするという保証はなく、最悪の場合、わたしがこれまで手術や抗がん剤などの問題点を指摘してきたことを不快に思い、少し困らせてやろうと嘘をつかれてしまう可能性もあります。
まあそれは冗談ですが、担当医から「がん」といわれれば素直にうけとれても、「良性だが手術が必要」といわれたら、疑念は大きくふくらみます。それで多分わたしは担当医に、カルテをみせろ、組織検査の報告書をみせろ、と迫ることになるでしょう。が、それはいささか見苦しい。それに、もし担当医が本気で隠し通そうとしたら、別の虚偽のカルテを作っておくことも可能なので、みせられたカルテが本物かどうか、疑いはいつまでも晴れません。それゆえ、がんかなと思ったら、誰にでも本当のことを知らせているという評判の病院や医者を探して、そこで検査をうけることになるでしょう。-医者のわたしにしてこうなのですから、一般の方がたの疑念はさらに深くなるはずで、こんな余分な気苦労をしなくてすむよう、誰にでも本当の病名を知らせることを世の常識にいたしましょう。

 

*医者はなぜ本当の病名を知らせてこなかったのか

医者が本当のことを知らせてこなかった一番の理由は、患者が不安になる、人生に絶望して自殺するかもしれない、ということでした。しかし数千人に病名を知らせてきたわたしの経験からすると、それはむしろ逆です。真実を隠されているとうすうす感づきながら治療をうける患者さんの不安は、本当のことを知った場合よりも大きいし、がんと知って自殺した人もみたことがありません。しかし逆に、病名を隠され孤独地獄におちいって自殺する方はいくらでもおります。
本当の病名を隠そうとする医者や家族は多分、余命の具体的長さまで告げなければならなくなる、と思いこんでおられるのではないか。しかしそれは誤解で、病名は知らせても、余命を知らせる必要はありません。また、患者さんのほうから聞いてくることもじつは少ないのです。治療法の選択は比較の問題ですから、余命を知らなくとも比較・選択は可能です。そして余命の判断は当てにならず、たとえ全身に転移があっても寝たきりでなければ、どんな名医も余命を月の単位で予測することは不可能です。したがって担当医が自信ありげに「余命は半年」と語るとすれば、その医者は神仏に近いか出鱈目な人間であるかのどちらかです。
余命を知らせなくてよいといっても、患者のほうから尋ねてくる場合には、希望を奪わないようにしつつ、きちんと説明する必要があります。わたしは自分の患者にはたとえば、「再発ですが、それだけ元気なのだから、すぐに亡くなることはありません」「ただ六か月くらいたつと、亡くなる方もでるはずです」「そして月日の経過とともに亡くなる人が増えていきますが、ある日突然全員が亡くなる、ということはありません」「五年、十年と生存する方も少なくないので、そちらに入るよう努めましょう」などと伝えるようにしています。

 

*治療法は自分で考え自分で決める

さて、わたしががんと告げられた場合を想像してみると、おそらく「いよいよ来たか」という心境になるでしょう。がんには老化現象という側面があるのだし、前述の発生頻度からしても、自分ががんにかからないですむと思うのはいささか能天気であるからです。そしてどこかで、いつ死んでもいいや、という気持ちがあるので、いざそのときがきても、あまりじたばたしないですむのではないか(実際には泣いたりわめいたりするかもしれませんので、その場合にはお許しを)。
ただ、痛いのや苦しいのはぞっとしません。また、いつ死んでもいいといっても、必要のないのに死ぬことは願わない。それゆえ、苦痛なく人生をつづけられるなら、そちらの道を選ぶことでしょう。
苦痛なく生きていくためには、治療法の選択がポイントになります。前述したように、どの臓器のどのような進行度のがんも、可能な治療法がたいてい複数存在するのですが、選択を過つと治療死したり、副作用や後遺症で苦しんだりすることが多いからです。そこでわたしは、たとえ自分が医者でなくても、治療法は自分で考えて決めるつもりです。なぜならば医者任せにすると、彼や彼女の専門とする方法に固執して別の治療法をかえりみなかったり、これもやろうあれもやろうとなって患者の負担が増える、という通弊があるからです。もちろん、それで生存期間がのび、治る率があがればいいのですが、たいていはそうならず、治療死や副作用・後遺症が増えるだけの結果に終ります。
これに対し決断するのが患者本人であれば、各治療法のメリットばかりでなく、デメリットのほうにも目がいきますから、おおむねバランスがとれた選択ができるはずです。現にわたしの外来には胃がんや肺がん、あるいは悪性リンパ腫といったように、さまざまな患者さんがセカンド・オピニオン(第二の意見)を聞きに来られるのですが、そのほとんどのケースで、患者本人のほうが各自の担当医より思慮が深く、妥当な結論に達しているように感じられます。
ところでわたしが医者であるため、治療法に関して「自分ならこうする」と語ると、かなり影響が大きいでしょう。その懸念と、患者自らが考えて選んだ治療法でないと、あとで後悔する可能性が高いので、診察室では「わたしならこうする」と語るのを極力避けてきました。しかしこれは本のなかでのことですから、興味ある読み物として、あるいは将来役にたつかもしれない選択肢の一つとして読んでいただければ

と思います。

 

*治療法を選択するためのわたしの視点

さて、治療法を選択するためには、判断する姿勢や視点といったものが必要で、それがなければ場当たり的になります。そこでわたしの姿勢や視点をあげてみると、
・がん細胞といえども、自分のからだの一部である。それゆえ必ずしも敵対視せず、共生する道がないかどうか考えてみる。
・がんの成長は世間で思われているほど急速ではなく、意外とゆっくり。早期がんも進行がんも、その大きさになるまでに、五年や十年はかかっている。それゆえ、治るか治らないかという運命は、診断される以前におおかた決まっているだろう。診断されてからの一か月や二か月程度のうちに、現在もっている運命が変わるとは考えにくいから、あせるのはやめる。それよりも腰をすえて、治療をうけるのが得か損か、うけるとしてどの治療法にするか、じっくりみきわめよう。
・がんで死ぬのは自然だけれども、治療で死ぬのは不条理。副作用や後遺症のない治療法は存在しないから、治療をうける場合のデメリットもよく考える。
・成人期以降のがんは、老化現象の一側面である。老化現象であれば、副作用や後遺症なくがんを克服することが困難なのは当然。
・がんが治るのであれば、すすんで治療もうけよう。ただし確実に治るという方法はないから、治る率と、治療死や副作用などの程度・頻度と比較考量する。
・治療は、うけたメリットが患者本人に実感できなければならない。したがって、苦痛の軽減する方法は、本物と評価できる。
・治療がある程度苦しくても、治療後に楽になることが確実なら、治療期間中と直後の時期は我慢しよう。
・治療前より日常生活が苦しくなり、それが一生つづくのなら、本当の意味での治療ではない。この点手術で臓器を摘出したら、ふつう手術前より苦しくなる(少数の例外あり)。したがって摘出手術の多くは、治療として失格。また副作用が強い抗がん剤治療も、ずっとつづけなければならないとすれば失格。
・大部分のがんにおいて、治癒ではなく延命を目標とせざるをえない。が、個々人の本来の寿命がわからないから、治療によって延命したかどうかは誰にもわからない。あるかないかわからない延命効果を重視して、それをもたらすという治療法に賭けると、人生がめちゃくちゃになる恐れもある。
・それゆえ発想法を転換し、日々の生活能力を大事にする。日常を楽にすごすことができる治療法なら、結果的に延命できる可能性も高いだろう。
・複数の選択肢があって、どちらがよいか判断に苦しむときは、現状を維持する方向で考える。たとえば手術と、臓器を残す治療法がある場合には、後者を選ぶ。
などとなります。
問題は具体的な対処法ですが、各臓器のがんについて語るのは、紙幅の関係で不可能です。詳しく知りたい方は、『ぼくがすすめるがん治療』(文藝春秋)や『安心できるがん治療法』(講談社+文庫)などを参照してください。ここでは、日本人の場合の代表的ながんである胃がんについて、わたしの対処法を示します。

 

*具体的な対処法①-早期がんの場合

胃がんも他臓器のがんと同じく、「早期がん」、「進行がん」、臓器への転移を伴う「転移がん」の三段階に分かれます。
早期がんの場合にはわたしは、治療をうけずに様子をみることに決めています。早期がんのほとんどは「がんもどき」であるはずだからです。つまり市町村のがん検診、職場健診、人間ドックなどで発見されている、いろいろな臓器の早期がんのほとんどは、治療しないで放置しておいても命に別状がないようなのです。少なくとも、それらを治療すると寿命がのびるとか、メリットがあるということは立証されていません。それが早期胃がんの場合に様子をみるという大きな理由です(がんもどきやがん検診については、『患者よ、がんと闘うな』文春文庫、などを参照してください)。
さて様子をみた結果、大きくなっていくことがわかった場合、内視鏡で病変を簡単に切除できるなら、内視鏡的切除をうけるでしょう。これに対し病変がかなり大きくて、病変を取り除くためには胃の部分切除ないし全摘をしなければならない場合には、切除をせずに様子をみます。お腹を開けること自体ぞっとしないし、胃を全部ならもちろん部分切除でも、食事に不自由したり、げっそりやせたりして、手術前とはうって変わった状態になってしまうからです。

 

*具体的な対処法②-進行がんの場合

次に、発見されたのが進行がんだとすると、がんが胃の出口を塞いで食事が通らない、などの症状がある場合と、胃がんに由来する症状がない場合とに分かれます。前者では、胃を切除して食事ができるようにすることには意味がありそうです。しかし、胃切除にともなう合併症や後遺症の危険もあるわけですし、そのために死んでしまう可能性もあります(いわゆる手術死)。これに対し以前、手術ができない時代には、胃がんで死亡する人の数は今よりずっと多かったのですが、大部分は比較的穏やかに死んでいかれたようです。(『患者よ、がんと闘うな』参照)。
症状がある場合に実際どうするかは、症状の出方や強さに照らして、そのときの心境のなかで決めていくわけですから、今から胃切除手術をうけるか否か断言はできません。ただし、胃と腸をとつないでわき道をつける手術(バイパス手術)ですむなら、手術をうけてもよいのではないかと考えています。あるいはそれもしないで、少量の放射線を照射して症状の改善をはかる可能性もあります。
これに対し進行がんでも、胃がんに由来する症状がない場合には、手術をうけないことに決めています。胃袋を部分的にしろ切除されたら、その瞬間から体調が悪化することが一番の理由です。わたしの外来には、進行がんでも様子をみている患者さんが数人おられますが、胃がんが進行して症状がでてくるまでには相当な年数が必要で、その間ふつうの日常生活を送っておられます。そしてもし症状がでてきた場合には、その段階で対処法を相談するようにしています。
誤解がないように付け加えると、がんの手術がすべて不要というのではありません。がんの手術のなかには、必要なものや、うけると苦痛がとれるものもあります。たとえば大腸がんで大腸が閉塞して苦しくなったら、わたしは病変部の切除手術をうけるでしょう。大腸は長いので、一部を切除しても日常生活が苦しくならないからです。これに対し胃袋の場合は、その形態や機能の特質ゆえ、部分切除(たいてい三分の二ほど切除する)でも相当苦しくなってしまうわけです。

 

*具体的な対処法③-転移がんの場合

つぎに転移がんですが、胃がんが転移していることが判明するのには数通りあり、手術してみたら腹膜や肝臓などに転移があったという場合が一つです。第二は、手術後に転移が顕現してくる場合です。このどちらも、肺がん、食道がんなどからの臓器転移と同じく、治癒不能のサインです。世の中には、臓器転移の存在を知っても胃切除をくわだてる外科医が多々いるのですが、医者の自己満足以外の意味はないでしょう。わたしとしては、転移の存在がはっきりしている場合は、胃の切除手術はもちろんうけませんが、検討すべきは抗がん剤治療をどうするか、です。
転移した胃がんは、抗がん剤では治らないので、延命を目的とせざろう得ません。が、はたして延命効果が得られるか。この点欧米で、くじ引き試験がいくつかおこなわれています。転移性の胃がん患者をおおぜい集め、くじを引くようにして二群に分け、片方には抗がん剤を使用し、他方は使わず様子をみて生存期間を比べる試験です。その結果、抗がん剤治療により数か月の延命効果を得ることができる、とされています。しかし、実情に詳しい人の弁によると、それらくじ引き試験では、非抗がん剤群のほうの治療にかなり手抜きがあるとのことで、延命効果があるとの推論を素直にうけとると危険です。
またかりに、数か月の延命効果が本当に得られるとしても、抗がん剤治療は一般に数か月つづくので、副作用で苦しむ期間分だけ延命する、という結果になってしまいます。そして前述のように、本来の寿命つまり何もしない場合の余命期間が不明ですから、本人を含め誰も、延命効果が得られたかどうか知ることができずに終わります。したがって本人としては、こんなに苦しいのだから延命しているはずだ、と思いこむしかないわけですが、それでは点滴を繰り返しうけて副作用をこうむる代償として十分なものではありません。わたしは、医者の指図をうけずに自由に暮らしていたいこともあり、抗がん剤治療はうけないことに決めています。
念のため述べておくと、抗がん剤治療の意味は、がんの種類によって異なります。大部分のがんでは胃がんと同じく、せいぜい延命効果しかないのですが、治る(可能性がある)ものもあります。急性白血病悪性リンパ腫、睾丸腫瘍、子宮の絨毛がん、子どものがん、がそれです。ただわたしは男性ですから、子宮がんの可能性はなく、子どものがんにもかかりようがない。そして子どもならよく治る急性白血病も、わたしの年齢になるとまず治らないので、副作用が甚大な抗がん剤治療をうける気にはなりません。したがって、わたしが治療や延命を目指して抗がん剤治療をうける確率は、百に一つ程度しかないことになります(ただし、放射線治療の効果を増強するために用いる抗がん剤は別の議論になる)。

 

*死ぬための場所をどう考えるか

さてどんながんでも、進行してきたら、あるいは転移が顕現したら、死ぬための場合を考える必要があります。その場合これまでは、今まで治療をうけていた病院の病棟に入ることが圧倒的多数でした。が、それは問題が少なくない。というのも一つには、医者が手術や抗がん剤を信奉していると、亡くなる寸前まで積極的に治療しようとするからです。わたしの担当になる医者も、そういう性癖を有している可能性があるので、一般病棟に入るのは二の足を踏みます。
またかりに担当医の、終末期医療に関する識見がすぐれていたとしても、一般病棟では看護婦の数が決定的に不足しています。したがって、そこそこのケアではあっても、十分満足がいくケアをうけられるかは疑問です。そして一般病棟には、終末期の患者ばかりでなく、急性疾患の患者や術後の人もおおぜいいます。その場合、医者も看護婦も、治る可能性がある患者の治療や処置を優先しがちになりますから、わたしは寂しい思いをすることが多くなるでしょう。また急性疾患や術後の患者が笑顔で退院していくのをみるのも、覚悟をしているとはいえ辛いものです。
そこでわたしは、同類の方がたばかりがいるホスピスに入所することを考えてみることになる。ホスピスは別名、緩和ケア病棟といいますが、病院とは別の建物になっているものと、病院のワンフロアをそれに当てているものとがあります。部屋の広さや施設が一定の基準をみたすと、緩和ケア病棟として認可されます。患者一人あたりの看護婦の数が多く、部屋もゆったりしているので、一般病棟に比べると別天地です。ホスピスにつとめる医者の考えや方針も、わたしのそれに近いでしょうから、その面でもストレスが少ないはずです(例外もあって、抗がん剤治療を好むホスピス医もいますから、油断めさるな)。
ただすぐれたホスピスはふつう、入所待ちの患者が多いという欠点があります。それゆえ、ぎりぎりまで家で粘って、いざというときさっと入る、ということはできそうにない。部屋が空いたという連絡がきたら、自分ではまだ必要ないとおもっても入所しなければならないのは考えものです。またいくらすぐれていているホスピスでも、入所すると、いろいろな規則を守らねばならず、医者や看護婦の顔色を多少ともうかがうことになるはずです。そうだとすると、気ままに生きてきた者にとっては堅苦しい

 

*自宅で死を迎えるための条件

結論をいうと、可能であれば家で死ぬのが一番だと思っております。広い家である必要はなく、マンションやアパートの一室でも臨終を迎えることは可能です。ただし自宅で亡くなるのを現実のものとするためには、いくつかの条件があります。その一つは、誰か夜中も面倒をみてくれる人が最低一人、できれば交代をみこんで二人程度確保できるかどうかです。
別の条件は、近所に在宅医療をおこなっている医者がいるかどうかです。なるべく医者を遠ざけて過ごしたくても、亡くなる前に最低でも一、二週間程度は、医者の往診が必要になるからです(長ければ数か月)。いいかえるとがんの場合、その程度ですむともいえます。苦痛さえとることができれば、わりあい最後まで動き回れ、寝つく期間が短いことが多いからです。医者や看護婦が訪ねてきてくれる在宅医療サービスが近年充実しつつありますが、まだ地域差が大きいので、受けられる場合と受けられない場合あるでしょう。
残る問題の一つは、がんによる痛みや、呼吸困難などの苦しみがでた場合にどうするか、です。まず痛みに関しては、モルヒネを十分に使うなどの対処法がほぼ確立しており、一〇〇%近くの患者さんで痛みを消失させるか、軽減することができます。
ただし、対処法が確立しているということと、それが受けられるかどうかは別問題で、モルヒネの使用量からみても、日本では普及がまだまだ遅れています。病院の一般病棟に、対処法に通じた医者がいるかは疑わしく、十分に除痛してもらえない場合めあるでしょう。また、本人にがんと知らせていない場合には、モルヒネを処方したら本当のことがわかってしまうではないか、となる可能性もあります(その意味でも、患者本人が病名や病状を知っている必要がある)。
とにかくわたしは医者ですし対処法を知っていますから、疼痛についてはあまり心配していませんが、肺転移による呼吸困難や、腹水がたまってお腹がパンパンになるような場合は問題です。これらについても、症状を軽減できる方法は存在します。が、いろいろやってみた結果、どうしても症状が軽減しないときがあるのです。その場合には、寿命が短くなることを覚悟しないと、楽になれません。たとえば呼吸困難に対しては、睡眠薬を点滴して意識レベルを下げてしまう(つまり眠らせる)。すると呼吸苦は感じなくなりますが、周囲と会話することができなくなり、体内に炭酸ガスが蓄積しやすくなるので、多少なりと寿命が短縮します。(念のためにいうと、痛みをとる場合には、モルヒネを使っても寿命は短縮しない。楽になるので、むしろ延命につながるはず)。
腹水も、なにをやっても増える一方でたいへん辛い、という状況におちいることがあります。それを楽にしようとすると、お腹にチューブを刺して腹水を抜くしかありません。そうして数リットルも抜けばいったん楽になるのですが、すぐに再びたまってきてパンパンになり、また抜くことを強いられます。腹水にはタンパク質がたっぷり入っており、数リットルずつ抜いていると身体は栄養失調になっていき、結局寿命を縮めるわけです。
そういう問題はあっても、それらの処置を希望される患者さんが多いことも事実です。わたしの経験では、寿命短縮の可能性まで説明しても、呼吸困難の場合にはほぼ全員が、腹水の場合には数割が、楽になることを希望されます(腹水のほうがまだ我慢できる、ということなのでしょう)。わたしはどうかというと、かりにそういう状況に直面したら、どちらの場合も楽になる方法を希望します。
このようにして医学的な意味では、あらゆる苦痛は除去ないし軽減できます。しかし、精神的な苦痛はどうか。生きることや、がん治療をうけつづけることに倦むという以上に、精神的な苦痛を感じるようになったときにどうしたらよいのか。医学や医療は答えをもちません。ひとつ理論的に考えられるのは、医者に頼んでいわゆる安楽死をおこなってもらうことですが、現在日本では認められておらず、患者が希望してもどうにもなりません。
別の解決策は自殺です。これはわたしには、たいへん魅力的にみえるのですが、そのときになって自殺するだけの気力があるかどうかが問題です(その意味で、実際に自決された三島由紀夫氏や江藤淳氏の気力はすごい)。結局わたしは、がんの終末期においては、はやく死にたいけれども自殺するほどの勇気もなく、うじうじとして最期を迎えることになりそうです。やれやれ。