「狭いわが家は楽しいか(My Blue Heaven) - 柴田元幸」柴田元幸べストエッセイ ちくま文庫

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「狭いわが家は楽しいか(My Blue Heaven) - 柴田元幸柴田元幸べストエッセイ ちくま文庫

狭いながらも楽しいわが家
愛の灯影[ひかげ]のさすところ
恋しい家こそ 私の青空

-名訳詞家、堀内敬三訳による、おなじみ『私の青空』の一節。一九二七年にジーン・オースティンが歌ってアメリカでヒットし、日本でも翌年、二村定一[ふたむらていいち]の歌で大流行した曲である。大正生まれの僕の父親が言うには、この歌がはやった昭和一ケタ当時、毎日夕方になると、勤めを終えた僕の叔父が「夕暮れにぃ仰ぎ見るぅ......」と歌いながら帰ってくるのが聞こえきたものだという。
とにかくいろんな人が歌い、演奏している曲で、僕のレコード/CDコレクションを見ても、テディ・ウィルソンのピアノソロがあり、ベニー・カーターとアール・ハインズの共演もあれば、ファッツ・ドミノによるロックンロール版、あるいは川畑文子をお手本にした吉田日出子の復古調歌唱もある。エノケンのレコードもあったはずなのだが見つからない。中学生のころ持っていたフォーク・クルセイダーズのライブ盤でも歌われていた。
楽天的にしてノスタルジックなメロディ-、イデオロギー的にも穏健そのもの、歌いようによってはいくらでも下司になりうる〈マイホーム主義〉をこれほど気持ちよく歌った歌もちょっとない。どこの国でも愛唱されて当然だろうが、それに加えて日本での人気は、訳詞の良さも大きいと思う。「狭いながらも楽しいわが家」という箇所などは『大辞林』の「ながらめ」の用例にも取りあげられている。
さて、冒頭に引用した部分、ジョージ・ホワイティングの原詞に次のようになっている。
You’ll see a smiling face, a fireplace. a cozy room
A little nest that's nestled where the roses bloom
Just Molly and me
And Baby makes three
We’re happy in my blue heaven
(笑顔に暖炉、心地よい部屋
バラの花咲く小さな巣
モリーと僕
それに赤ん坊の三人
僕らは幸福 私の青空)
一般に日本語の歌詞の場合、伝えることのできる情報量は英語よりずっと少ない。英語では「二」言えるところを日本語では「一」も言えない。それを思うと、原詞のエッセンスを巧みに抽出している堀内訳の上手さにはあらためて敬服してしまう。特に見事と思うのは「狭いながらも楽しいわが家」の部分である。この一句に、訳者が日米間のものの感じ方の違いを計算に入れて、原詞を微妙にずらしていることがうかがえるからだ。

たしかに原詞でも、cozyという言葉には「小じんまりとした」というニュアンスがあるし、A little nestはもっとはっきり「小ささ」を意味している。けれども、そこで意味されているのは「心地よい」小ささ、「それ以上大きい必要はない」小ささである。それはあくまで満足の表現である。これに対して、「狭いながらも」には、「本当はもう少し広いほうがいいんだけど、でも、ま、いいか」という響きがある。それはいわば快い諦念の表現である。原詞の「小さくて、楽しいわが家」が、訳詞では「小さいけど、楽しいわが家」に変わっているのだ。
大した差ではないかもしれない。たとえば、“Home on the Range”(草原のわが家)の雄大さが『峠のわが家』のつつましさに変貌してしまうことに比べれば。けれども、「小さくて、楽しい」と「小さいけど、楽しい」の違いのほうが、表面的には小さくても、ある意味ではより深い違いに根ざしているともいえる。なぜならそれは、「楽しい」という思いの表し方、あるいは思いの抱き方自体における、両文化間の違いを体現しているからだ。
一般に、アメリカ人は何かを肯定するとき、それを全面的に肯定する表現を好む。否定的要素はあえて口にしないか、むしろ肯定的要素に読みかえて(「狭い」ではなくcozyとして)表現する。彼らにとって、狭いわが家、と言ってしまったら、それはもはや楽しいものではないのだ。
逆に日本人は、「......ながらも」「......ではあれ」というふうに、むしろ何らかの限定を加えて肯定することを好む。いってみれば、百パーセントの幸福よりも、「......だけど、でも、ま、いいか」と自分に言い聞かせる部分があったほうが、幸福としつリアルなのだ。
そんな違いが、“My Blue Heaven”と『私の青空』の差異によく表われている。つまり、堀内訳のよさは、オリジナルの英詞をも一種の「翻訳」として捉えているところにある。図式的にいえば、「楽しいわが家」という、いわば〈原概念〉-これをかりにAと呼ぼう-がまずあって、それが英語の歌詞においてはA1として表現されている。訳詞はA1を翻訳するのではなく、A1の向こうに見えるAそのものを翻訳することによってA2を作ろうとしている......ということである。
むろんここには危険がともなう。A1の向こうにいかなるAを読み取るかは、翻訳する人間のセンスに左右されるからだ。口でいうのは易しくても、僕みたいなかけ出しの翻訳者にはなかなかできない。よい翻訳をすることは、よい翻訳について語るよりずっと難しい。
と、ここまで書いたところでワープロから顔を上げ、冷蔵庫と食器棚とパソコンとテレビとステレオが一部屋に同居した狭い狭い棟割長屋のわが家を眺めると、原概念がどうの翻訳がこうのなんて議論が、いっぺんに空しくなってくる。
ああ、私の青空は遠い。昔の詩人たちにとってのフランスよりもはるかに。(1990・12)