「電報譚 - 丸谷才一」文春文庫腹を抱へる から

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「電報譚 - 丸谷才一」文春文庫腹を抱へる から

昔、電報ていふものがあつた。正確を期して言へば、いまでもあることはある。
しかし、電話が普及したせいで、慶弔用にしか使はれなくなつたんですね。慶弔用以外には、大学の入試速報と、それからサラ金の催促に使ふんださうです。後者は、何月何日たしかに催促しましたよといふ證拠になるから内容證明だの、配達證明だのやつたんぢゃ、高くつくのである。やはり、サラ金業者なんてのは、かういふことにかけては頭がいいなあ。
で、電報さかんなりしころ、最も有名な電文は、「〇オクレイサイフミ」といふのでしたね〇とは金の略称である。フミとは手紙である。つまり詳しい事情は手紙で説明するが、とにかく一刻も早く金を送ってくれ、といふ意味であります。何しろ電報は一字いくらですからすこぶる高かったし、濁音は二字分になつたから、かういふ略称が発達したのである。
などと書いてゐると、古老になつたやうな気がする。事実、さうなのかもしれないが。
電報は一八七〇年一月(明治二年十二月)東京-横浜間ではじまつて以来、高度成長のころまで、日本人にとつてすこぶる調法な仕掛けであつた。みんながしきりに利用した。
ところが不思議なことに、電報文学とも称すべき名電文は、すくないと言ふよりもむしろ、ほとんどないのですね。近代の日本人はこれを実用の文字と認識して、〇オクレだの、チチキトクだの、さういふことばかり打つてゐた。電報を風雅と結びつけようとしなかつた。
唯一の例外は、一八七六年(明治九年)神風連[じんぷうれん]の乱のときに藝者の打つた電文であります。熊本の士族二百余人が鎮台司令官種田政明少将、県令安岡良亮[よしすけ]を襲つて殺害した。このとき、政明の、今の言葉で言ふと愛人である日本橋藝者小勝なる者が、暴徒に抵抗して負傷したのですが、東京の父親のところへ急を告げた。その電文にいはく、

ダンナハイケナイ」ワタシハテキズ

これが大変な人気を博しました。当時の花形作家、仮名垣魯文はこれに加筆して、

旦那はいけない、わたしは手傷、代りたいぞえ国のため

といふ都々逸を作り一世を風靡したといふ。
明治の藝者にこんな文才があつたのかと感心したくなりますが、ここのところがちよつとむづかしい。何しろ口語文が成立してゐない時代ですから、小勝は、いつも口ずさんでゐる小唄端唄の調子で書くしかなかつたのでせう。文章は型にはめて書くものなのである。