「市中隠栖(抜書) - 上林暁」

「市中隠栖(抜書) - 上林暁

堀氏の娘達は、二人とも帰りの遅くなることが多い。夕食の支度に間に合はないことが度々ある。待つてゐても早く帰つて来ない晩は、氏は自分で魚屋に出かけて、娘達の分も買つて来る。魚屋では魚を冷蔵庫にしまひかけるころである。
「今夜もお一人ですか。」魚屋では言ふ。
「うん、今夜も一人だ。」
魚屋の主人は可笑しがつて、「ア、ハ、ハ、ハ」と笑ふ。
氏は魚を焼きながら、飯も炊く。
氏は晩酌はやらない。家で飲むなら、寝る前に寝酒を飲む。晩酌をやると直ぐ睡たくなつて、夜の時間が無駄になると考えてゐる。また、一杯飲んだあとの仕事や勉強はからだに障るとも考へて、晩酌を控える。
氏は家で飲むよりも、外で飲む方が主である。先年大病を患つて、一時は飲み屋からも遠ざかつてゐたが、このごろまた復活したのである。しかし一ころのやうに、大酒、深酒は絶対にやらない。飲み屋の女にうつつを抜かすといふことももうない。ビールでも一本か二本、酒でも一本か二本かを、ゆっくりと時間をかけて楽しむ主義に転向した。酒のために金をはたくのも馬鹿臭くなつたから、酒が安く飲める店に足を向ける。だから今の氏は、大衆酒場を好んでゐる。
氏の最近の行きつけは、神山バーという軽酒場に固定してゐる。神山バーと聞いて、昔なつかしい感じのする人も多かろうと思ふ。大正時代以来、都内に軽酒場の連鎖店を張つて、今日に及んでゐるバーで、その連鎖店の一つが、氏の目に停まつて、氏の好みに合つたのである。そもそもは「ビール一一五圓」といふ看板に釣られて入つた。
神山バーでは、そのビールを飲む客も多いが、これも昔なつかしい電気ブラン(三五圓)をひつかける人が圧倒的に多い。安くて、酔ひの廻りが早く、激甚だからであらう。電気ブランは、色々な強酒の交ぜ合はせださうで、葡萄酒と変らない色をしてゐる。それを、胴の凹んだ、分厚いコップになみなみと注いでくれるのも、昔の通りである。ところで、氏はまだブランを飲んだことがない。氏には強すぎて、悪酔ひしさうで怖いのである。
氏はビールが二級酒(五二圓)を飲む。さかなは、壁に大きく下手な字で書いた定価表が懸かつてゐるので、一応目を通す。「鯨べーこん二〇圓」、「かきふらい二五圓」、「かきす二〇圓」、「さしみ三〇圓」、「奴・湯どうふ一五圓」、「あじのからあげ二〇圓」、「いかうで・ぬた二〇圓」、「新セロリー二〇圓」といふふうに、一枚々々の紙に書いてぶら下げた定価表である。しかし、氏はそれに目を通しても通さなくても同じことで、大抵は奴豆腐にする。

勤人の退け時には、席がなくてあぶれて帰る人もあるほどの込みやうだとのことだが、氏が暖簾をくぐるのは、娘達が帰宅してからの夜更けのことが多いから、店はまばらになつてゐる。それだけ、合せる顔も半分はきまつてゐる。おそい人はいつもおそいのである。職業もいつの間にか判つて来た。
先づ、靴屋さん。この人はおとなしい人で、毎晩飲む分量をきめてゐる。ビール一本とお銚子一本飲んで、頬つぺたをまつ赤にして帰つてゆく。腰掛を立つ時には、氏に会釈する。
南畫に描かれてゐる支那文人のやうな顔をした老人は、菓子職人である。汚れた白い上つ張りを着て、辨當箱を提げてゐる。勤めている菓子屋の名を言つたので、「生菓子を作るんですか」と氏が尋ねると、半生まの菓子も作ると答へた。「半生まの菓子といふと、桃山なんかですか」と尋ねると、「桃山だとか、茶通だとか」と、さう答へた。
突然、ひよこつと顔を出すのは、おでん屋である。江戸前に鉢巻を巻いて、いなせな風體をしてゐる。毎晩神山バーの前に屋臺車を停めてゐて、客の来ない隙をねらつて、一杯ひつかけに飛び込んで来るのである。大急ぎで飲み干すと、直ぐまた引つ込んでゆく。
目がぎょろりとして、聲の疳高いのは、小學校の教頭先生である。一通りの疳高さではない。まるで喧嘩が起つてるやうな疳高さである。この疳高い酒癖のために損をして、長年勤續にも拘らず、校長になれないといふのは本當かも知れない。
いつ来ても、競馬新聞と首つ引きの男もゐる。この男は何をしてゐるか判らない。
戦災で火傷したのであらう、顔中ひつつつてゐる若い男は、店の脇口から出入りして、一番奥の席に坐る。この男も何をしてゐるのか判らない。
婦人も、一人ゐる。未亡人で、四十五だといふが、歳よりは老けて見える。頬はふつくらしてゐるが、頭は大半白くなつてゐる。二十八になる娘と二人暮らしで、風呂の帰りに必ずビールを一本飲んで行くのださうである。風呂上りだから、顔は赤く上気してゐる。彼女の現れない晩は、風呂に来ない晩である。ある晩、氏が早めに神山バーを出て帰りかけると、途中で濡れた湯道具を提げた彼女に出会つた。お辞儀をするので、「これから、あすこですか」と笑ひかけると「フ、フ、フ、フ、」と含み笑ひをして、別れて行つた。 
最後に、神山バーの主のやうな存在である洋服屋について語らねばなるまい。氏の一番親しいのも、洋服屋である。店の人も客も、「鶴さん」と愛称してゐて、「鶴田さん」と呼ぶのは氏一人かも知れない。「鶴さんはまだなの」、「鶴さんは今夜は来ないの」などと、来る客も来る客も、洋服屋の姿の見えない時には店の人に尋ねる。それくらゐ、洋服屋の消息には関心が払はれてゐる。氏も洋服屋が見えない時にはがつかりして、「鶴田さんはおそいねえ。来ないのかなア」などと、店の人に話しかけるやうになつた。洋服屋がやつて来るのは、店を仕舞つてからで、十一時過ぎである。
洋服屋は色が蒼白く、痩せつぽちで、小柄である。かなりひどい★を引く。まだ四十前なのに、額から侵蝕されかかつた髪をきれいに光らせてゐて、銀ぶちの目鏡をかけてゐる。彼は電気ブランのコップを並べて、水の入つたジョッキを据えて、肘を張つてゐる。ブランを一口飲む毎に、ジョッキを取つて水を飲む。そして、ブラン一杯につきジョッキ一杯の水を欠かさない。毎晩四、五杯のブランを飲むやうだから、それにつれてジョッキの水も四、五杯飲む勘定になる。彼の場合、取手を握つて、ジョッキの水を傾けてゐるのが印象的である。ひよつとすると、水ばかり飲んでゐるやうに見える。彼はさうして一番おそくまでねばつて行く。帰る時は、足元の乱れてゐないことがないさうである。

氏が神山バーを発見してからまだ日の浅かつた時分、ある晩寄つてみると、酔顔がいつぱい列んでゐた。その列の中から、氏を見つけて、「あッ、先生」と言つて手を挙げた男があつた。それからその男は自分のそばの席を空けて、「ここへいらつしやい、ここへいらつしやい」と手招ぎした。氏は言はれるままに、そのそばへ行つて腰を下ろしたが、初めのうち、それが誰だか思ひ出せなかつた。思ひ出してみると、去年の夏、よその飲み屋で一度顔を合わせたことある男だつた。その店へ、知り合ひの、住宅周旋業者と連れ立つて入つて来たのが、この男だつた。住宅周旋業者の男は人並みはづれて肥つてゐるのに、この男は痩せつぽちの小男で、それが裸かで、肋の骨を見せてゐた。二人が並んでゐるところは、大木と蝉のように見えた。この男はもう酔つてゐて、おかみを相手に、早口にペチャペチャ喋舌つては笑つてゐたが、氏には何を言つてゐるのか、何が可笑しいのか、さつぱり判らなかつた。氏はその時のことを忘れてゐたが、向うでは憶えてゐたのである。
「先生も、ここへいらつしやるんですか。」
「うん、ビールが安いから、ちよくちよく来るよ。ビールが一本一一五圓といふのは、公定價並みで、うちで飲むより二圓しか高くないんだからねえ。」
「製造元からの直賣ですからねえ。その代りビールの銘柄がきまつてゐて、何でも飲めるといふわけにはいきませんよ。」
「ああ、さうか。」
「僕はもつぱら、これです。」と言つて、その男は電気ブランのコップを取上げて見せた。
「それはきついんだろう」
「ビールや酒では徹しませんからねえ。これでなくちや駄目ですよ。」
そんなことが口の利き初めであつたが、その後何度も落合つたり、席を並べて飲んだりしてる間に、その男が「鶴さん」であり、洋服屋であり、鶴田といふ名前であることが判つて来たのである。
洋服屋は、相変らず早口にペチャペチャと喋舌る。生れは仙臺だとかで、仙臺辯が交るので、余計聞きにくい。聞きにくいといふうちには、氏の耳が-左耳の方が少し遠くなつてゐることも計算に入れなくてはならない。しかし、氏は調子を合せて話を聞いてゐるうちに、大分聞き慣れて来た。立てつづけに喋舌る口調には、頭の閃きを示す鋭さを含んでゐることも判つて来た。それがユーモアに富んでゐて、ひとを笑はせることにも気づいた。喋舌りながら、時々鼻の上に皺を寄せたり、白い歯を見せて薄ら笑ひを浮かべたりして、シニックな表情になるのが、却つて洋服屋の愛嬌になつてゐるにも気づいて来た。
愛嬌といへば、氏は一度、洋服屋のあどけない顔を見たことがある。洋服屋は酔ひ倒れてゐた。番臺の上に両腕を組んで、その上に頭を載せて、顔を右向きにして眠つてゐた。ぐつすり眠り込んでゐて、顔をピクッともさせなかつた。どうしたのかと店の人に聞いてみると、その日千葉の海岸へ潮干狩に行つてゐて、そこで飲んで、帰つて来てまた飲んだので酔ひつぶれたたのだといふことだつた。店では蛤の入つた網袋を預かつてゐて、それを出して見せた。蛤の網袋を見た途端、呑んべいの酔ひつぶれに見えてゐた洋服屋の顔が、まるで遠足帰りの子供の顔のやうに見えて来た。まだ宵の口だつたが、日曜日でほかに客はゐなかつたので、氏がビールを一本飲んで帰る時にも、洋服屋はまだその無邪気な寝顔のままですやすやと眠つてゐた。

「鶴さんは、毎晩ここから来るんだな。」
氏は注意してゐて、「紳士服専門鶴田洋装店」の看板の出てゐる家を見つけたとき、さう呟いた。驛の西寄りの踏切を渡つて直ぐ、そこから神山バーまでは一、二分の所である。椅子や長椅子などを扱ふ店が大部分を占めた二階家の端つこに一間の間口で小さな店を出してゐるのだつた。
氏が神山バーへ行かうとして店の前を通りかかるのは十一時より前のことが多いので、洋服屋は狭い店の中に明るい電燈を輝かして、まだ洋服の仕立に余念がない。氏はこの飲み友達ね姿を見ると、聲をかけたくなるが、遠慮して黙つて通り過ぎる。しかし時には、ガラス戸を開けて、聲をかけずにゐられなくなる。
「やつてるの。」
「ああ、先生。これから?」洋服屋はびっくりした顔を上げる。
「これからだ。」
「僕ももう終りますから、直ぐ参ります。」
「さう。ぢやア、お先へ。誘惑するやうで、悪いなア。」氏は笑ひを残して、戸を閉める。
氏が飲んで帰るのが少し早い時にも、洋服屋はまだ一心不乱である。そんな時には、氏は酒の勢ひで、躊躇なくガラス戸に手をかける。
「まだ、やつてるの。」
「先生、もうお帰り?」
「うん、帰るところだ。おそくまで精を出すなア。」
「僕も、これから出かけようと思つているところです。」洋服屋は気が急いてるやうに言ふ。
「さう。ぢやア、お休み。」
「お休みなさい。」
氏は往き帰りに、こんな短い会話を交すのを楽しむやうになつた。
氏は神山バーにおそくまでゐても、十二時になつて暖簾が入れられるのを見ると、そろそろ腰を上げる。洋服屋はそれを見ても、腰を据えて動かない。
「ぢやア、お休み。」氏は洋服屋の肩を突いて、立ち上る。
「お休みなさい。」と、洋服屋はコップを持つたまま振向く。
氏が家に帰ると、氏が出かける時はまだ帰宅してゐなかつた者もすでに帰つてゐて、姉娘は玄関の間に、妹娘は茶の間に眠つてゐる。氏は玄関の灯をつけて足場を見極め、それからまた灯を消して、姉娘の肩越しに跨いで、自室に入つて行く。そして、そこに延べらられてある寝床にもぐり込む。