「死ぬべき存在としての自分の可能性 - 小浜逸郎」癒しとしての死の哲学 から

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「死ぬべき存在としての自分の可能性 - 小浜逸郎」癒しとしての死の哲学 から

たしかに、人は、無限定の「いつか」を想像力で設定することができる。この宇宙を「いつか」俺が征服してやると企てることや、一万年後の再会を約束することなどは、ことばの上では不可能ではない。しかしそれらは、妄想や冗談や情緒性の深さを印象づける手段としては承認されるとしても、いずれそのようなかたちでしか承認されない。まさにそのことによって、私たちの有限性の認識が共通了解としていかに徹底したものであるかを逆に証しているのである。
また逆に、「何年後にこうしようなどと人に夢を語るが、人間の一生など一寸先は闇だということを知らない愚かさの現われだ、明日にも死ぬかもしれないということから目を背けているから、そんな能天気なことが言っていられるのだ」といった不可知論者のシニシズムにも、すでに述べたような人間の生の意識の実態に即するかぎり、それほどの現実的な根拠があるわけではないということがわかる。彼はある瞬間にそんなシニシズムに浸りながら、別の瞬間には、平気で来週の約束のことを気にしたり、夏の旅行計画を立てたりしているものだからである。
人間が、自分を、いつかかならず死ぬべき存在であるということを自覚していることは、いつ何時偶発的に自分が死ぬかもしれないということを意識することと同じではない。何年か先の夢を語ることは、死すべき存在としての自分を自覚していることと、けっして矛盾しないのである。
むしろまったく逆に、そのような実現可能な夢を語りうるということ、そのこと自体のうちに、自分の有限性の認識は繰り込まれてある。なぜならば、こうした具体的な夢は、必ず、自分の一生ということを、その年齢とか、関係の変化の可能性とかをも含めて、全体として潜在的な視野に入れたうえで語られるからである。