「動物園物語(抜書) - 丸谷才一」男もの女もの から

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「動物園物語(抜書) - 丸谷才一」男もの女もの から

句集を出す話は前まへからあつた。宗田安正さんは立風書房の編集者で、山口誓子系の俳人で、大岡信さんの『折々のうた』にも一度か二度、句が出てゐる。この人はわたしとはずいぶん古いつきあひで、ときどき現れては四方山話をして引上げるのだが、その四方山話のなかには発句のことも当然まじる。たまにわたしの近作を披露することもあって、宗田さんはあれこれ批評してくれた。さうかうしてゐるうちに、一つ句集を出しませんか、とすすめてくれるやうになつたのである。わたしはもちろん固辞した。何しろ立風書房から出てゐる句集のなかには、森澄雄さんのものや飯田龍太さんのものもまじるほどで、格式の高い出版社である。わたしごときが出してもらふのは僭越だし、それに第一、一冊にするほど数が揃はない。光栄な話ではあるが、と言つて丁重に辞退した。
ところが人間の心理は複雑なもので、そのうちに何となく、句集が出したいやうな気持になつて来た。これを単に、わたしがづうづうしくて恥しらずだからと考へると間違ひなので、いや、必ずしも間違ひとは言ひ切れないが他の要因もすこしあるので、つまりそれくらゐ宗田さんはすすめ上手であつたし、簡単には諦めなかつた。たぶん、すすめ上手で、かつ不★[ぎよう]不屈でなければ編集者として失格なのであらう。わたしはいつの間にやら句集の件を引受け、ただし何年さきの話になるかわからないよ、何しろ小説を書くのだつて怠け者なんだから、などと予防線を張つた。さういふ具合にぐずぐず言ひながらも、しかし一方では、句数がうんとすくなくてもいいやうに『雀の泪』といふ句集の題を考へたりしたのだから、つまりわたしはやはり句集が出したかつたのである。
しかしさうは言つてもなかなか発句ができない。ときたま作ることはあつても、年に二句か三句、せいぜい五句か六句である。それも年賀状に書く句とか、ものをもらつたときのお礼の句とか、宗田さんは、催促するが、わたしは柳に風と受け流してゐた。そしてこれは、長篇小説を催促されたときと違つて非常に楽である。本職ではない、余技にすぎないといふ申し開きがあるから、ちつとも気持が咎めない。
そのうちに宗田さんは一計を案じた。これがなかなかの名案で、何年後かには七十になるわけですから古稀の祝ひに句集を出しませうやといふのである。幸か不幸かその何年後といふのはかなりさきだつた。あるいは、さきであるやうに感じられた。そこでわたしはついうつかり賛成した。これはわれわれ文筆業者の共通の癖であつて、締切りがかなりさきの話は引受けてしまふのである。もちろんてんから気の進まない話のときは別だが、ちよつと食指が動く話で、しかも締切りが遠い将来てなると快諾しがちである。このときもそれで安請合した。
そして奇妙なことに、わたしはこの安請合によつて気分が高揚したらしい。いや、待てよ、ちつとも奇妙ぢやないぞ。順序関係の言ひ方がをかしかつただけだ。一般に安請合は気分の高揚によつてなされるものなのである。
そこでわたしはこの句集についてやや具体的に考へるやうになつた。と言つても句作に励んだわけではなく、まづ、選句を誰に頼むか。装釘は誰に、などと計画を立てたのである。しかし本当のことを言ふと、これは恰好をつけてゐるだけで、心のなかではもう決つてゐるのである。装釘はいつもわたしの本を手がけてくれる和田誠さん、選句は歌仙のとき宗匠格である大岡信さん、それ以外にはあり得ない。
まづ和田さんに言ふと、さらりと引受けてくれた。大岡さんに言ふと、
「いいよ。古稀の句集なら題は『七十句』がいいでせう」
と題までつけてくれた。
なるほどこれはいいやとわたしは喜び、『雀の泪』よりはこつちのほうがずつと粋だし、それにわずか七十句ですむなら簡単だと安心したのである。
それに、この題は明らかに高浜虚子の『五百句』『五百五十句』『六百句』といふ自選句集を踏まへてゐる命名で、とすると、わたしの句の格が虚子の句に近づくみたいで嬉しい、などと思つたことも告白して置かう。虚子の自選句集三冊は、彼の主宰する「ホトトギス」が五百号、五百五十号、六百号になつたのをそれぞれ記念したもので近代の名句集である。『日本文学史早わかり』といふ私の本の巻末についてゐる文学史年表にも、個人句集の代表といふ格で載つてゐる。ところが向うが何百といふ句数なのにこちらはわずか七十。いつそう立派になるとわたしはほくそ笑んだのであつた。
さて一九九四年の春、宗田さんはふらりと現れて、来年の八月二十七日に満七十になるわけだから、発行日はその日にしようと言ふ。実はわたしはそのすこし前から気がついて、あわててゐたのだ。どうしてあわてたかといふと、句帖を読み返してみると駄目な句が多く、大岡さんに見てもらふ句の数が七十句に程遠い状態だつたからである。せめて倍の百四十句は揃へて、そのなかから選んでもらはう。さう思つて、この年は句作に励んだ。殊に十二月になると頑張つた。その結果、大晦日の夕方、百十句くらゐをファックスで大岡さんに送つたのである。
春の終り、校正刷りが出たころ、何といふことなしに虚子の自選三句集を読み返してみた。句がうまいのは当り前で、いまさら驚くことはないが、句集を出す身となると改めて感心する。たとへば『五百句』の
這入りたる虻にふくるる花擬宝珠[はなぎぼし]
蜘蛛打つて暫[しばらく]心静まらず
酒うすしせめては燗を熱うせよ
うまいなあ、やはり。ただただ脱帽するのみである。やはり素人とは違ふ。
ところが『五百五十句』の序に、
『五百五十句』といふ書物の名にしたけれど五百七八十句になつたかと思ふ。それも厳密に考へる必要はないのである。
とある。さらに『六百句』の序には、
「五百句」の時と同じく句数は厳格に六百句に限つたわけではなく多少超過してゐるかもしれぬ。
とある。わたしはこれを読んで、心のなかで、しまつた、とつぶやいた。といふのは、大岡さんは八十句近くを選んでくれたのに、わたしはきちんと勘定して七十句を残したのだから。あれは律儀と言へば律儀だが、まことに詰まらぬ話であつた。これはやはり虚子の流儀で無精をきめこみ、いい加減にすればよかつた。さうすればおのづから俳味があるし、それに何となく大人物めいて見えるのに。うーむ、残念なことをした。さう思つてわたしは、いかにも小人物にふさわしく、くよくよと後悔したのである。
(ここまで)