「最善の悩み方 - 土屋賢二」論より譲歩 から

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「最善の悩み方 - 土屋賢二」論より譲歩 から

ツチヤ師(筆者とは比較にならない聖人である)が、師を慕う者たちと夕暮れの公園を歩いているとき、ふと足を止めておっしゃった。
「見よ。あの夕焼け空を。何と美しく淋しく切ないのであろうか。カトマンズで見る夜明けよりも含蓄に富んでいる。カトマンズへ行ったことはないが。鳥のさえずりを聞くがいい。どっしりした木を見よ。何と平和に生きていることか」
この深いおことばを吐かれたとき、つながれていた犬が無礼にも、師に向かって激しく吠えた。突然のことだったので、平和をかみしめていた師は驚いて十センチほど飛び上がられた。否、そう見えた。というのは、師がこうおっしゃったからである。
「あまりにも平和だからジャンプしたら、ちょうど犬が吠えた」
やはり凡人とは違う。だれが犬とこれほど正確にタイミングを合わせることができるだろうか。
吠え続ける犬に追われるように一同、その場を去り、自販機でジュースを買う。飲み物を飲んで落ち着きを取り戻したとき、一人の女が甲高い声で突然言った。
「ダイエットが続かなくて悩んでいます」
突然の発言にダイエットコーラを飲んでおられたツチヤ師は驚ろかれたのか、激しく咳き込み、鼻からコーラ状のものをお出しになられた。タイミングを合わせられたに違いない。数分後、落ち着きを取り戻されると、師はおっしゃった。
「食べたければ食べればいい。やせたければ食べなければいい。どこに悩む余地があろうか。悩むだけ無駄である。他の悩みも同じである。学校の成績が悪ければ、悩む代わりに勉強すればよい。勉強がイヤなら悩む代わりにあきらめればよい」
英知のおことばに感銘を受けていると、質問した女が言った。
「師も悩んでおられるのではありませんか?」
無礼な発言に動揺のざわめきが広がった。以前失礼な質問を受けたとき、師はスネてお帰りになられたことがあるのだ。一同がハラハラして固唾をのみ中、師はお答えになった。
「わ、わたしは......えーと......悩むのではなく、ただ困っているのである。難しい質問をされたときや、妻に詰問されたときなど、毎日のように困っている」
こうおっしゃってベンチに腰をおろされた。話が長引くご様子である。
「人が悩まないときは二つある。一つはすべて順調だと思っているときだ。もう一つは、せっぱつまったときだ。わたしは毎日せっぱつまっている。悩む余裕がほしいものだ」
だれがこれほど洞察に富むことばを吐けるだろうか。英知のことばは続いた。
「考えよ。なぜ悩むのか?暇つぶしのためでもあるが、たいていは、自分に言い訳するためである」
深すぎて理解できないでいると、師は続けられた。
「悩まないでケーキを食べるのと、悩みつつケーキを食べるのとでは、大きい違いがある。悩む者は、しんそこ欲深い者とは違って、食べてはいけないと思いつつ苦しい葛藤の末に食べる。自分は苦しみと引き換えに食べているのだと言い聞かせて初めておいしく食べられるのである。わたしの知っている女は、レストランでメニューを見てカロリー表示を必ず確かめた上で、結果的に一番高カロリーの料理を選ぶ。彼女にとっては、カロリーの数字に目を通すという手続きが〈葛藤の末の苦渋の決断〉であり、悩むということである。悩むなら、ここまで悩みを儀式化すべきである。そうすれば気持ちよく好きなものを食べられる」
そのとき師の携帯が鳴った。電話にお出になった師の顔にみるみる苦悩の色が浮かんだ。師は「妻に頼まれていた書留を出し忘れてしまった。もう郵便局は閉まっている。どう言い訳したらいいものか」とつぶやかれると、足早に立ち去られた。師の困っておられる後ろ姿を一同見送った。