(巻三十二)信ずれば平時の空や去年今年(三橋敏雄)

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(巻三十二)信ずれば平時の空や去年今年(三橋敏雄)

 

1月16日日曜日

二晩乾き物をつまみに寝酒をしたが、やはり夜中に喉が渇く。元に戻そう。

よくないと承知のうえの寝酒かな(拙句)

世事は書きたくないが、今年のセンター入試は色々な事が起こる。今朝は津波でゴタゴタしたらしい。

細君が朝日俳壇を届けてくれた。今週は朝日歌壇賞が発表されていて、長尾幹也氏が受賞されていた。おめでとうございます。お写真が掲載されていますが、作風、お人柄を現すお写真ですね。

書き留めた句は、

凩や小銭確めコップ酒(金子秀重)

どこまでも風に追はるる枯葉かな(岡本吉雄) 

冬温し面白がつて生きてゐる(森木道典)

好天無風で細君はシーツを洗う決断をした。私は午後の散歩でモツ吟まで脚を延ばすことにした。途中メダカの水槽を見かけた。陽を浴びて少しは水が温んだのかメダカが動いていた。

目高来る驚きやすき影連れて(小澤克巳)

立呑屋には三人ほどの高齢者が壁を向いて黙々と呑んでいて、私も壁を相手に一杯いたした。注文を取る極めて短い会話の他には声は聞こえない。

串焼き本舗の方はテーブル席でのグループ飲みが主流だから土日に近寄る気にはなれない。

願い事-生死直結で叶えてください。コワクナイ、コワクナイ。日曜日は顔本に警句がよく掲出されるのだが、今日は不作の日だった。以前の警句に、

Life only becomes too hard when you stop believing.

と云うのがあった。

信ずれば平時の空や去年今年(三橋敏雄)

と表裏ではなかろうか。

神様にしろお金にしろ信じていなければ安心は得られまい。身の回りに神様を信じている人はいなかったが、お金を信奉している人たちはかなりいた。いつ紙屑になるかわかったものではないと疑ってしまうと最後の拠り所も虚しいものになってしまう。

冬蜂の死にどころなく歩きけり(村上鬼城)

あと、それから、仏様は信じてどうのこうのという方ではないようですね。

 

> 「「人は死ねば死にっきり」という仏教的ニヒリズム - 小浜逸郎」癒しとしての死の哲学 から

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> 先に述べたように、プラトニズムにおいては、現世の価値のかわりに現世を否定・超越したもう一つ別の生の価値を置き換えることで、死の否定性そのものを逆説的に生への執着(それは精神化されているが)に結びつけるという離れ業がおこなわれていた。しかし、仏教には寂滅の境地へ向かってのひたすらな修練の志向が見られるばかりである。それは、魂の価値をいわず、むしろ逆に、肉体が有から無へと散じていくありさまに魂をも寄り添わせ、そのことによって、魂のざわめき自体を殺せといっているとしか思えない。

> ということはどういうことであろうか。ここで暗黙のうちに強調されているのは、結局次のようなことだ。

> 人(の肉体と魂)は、死ねばこのようになり、これで一巻の終わり、そしてそれ以外のなにものでもない。何らかの「生きのびる道」などを観念の力で構想することはむなしいことである。

> こうして、仏教的ニヒリズムは「人は死ねば死にっきり」という徹底したリアリズムのうちに人を釘づけにしてしまう。それがすべての仏教のねらいであったとはいうまい。ただもし煩悩の寂滅をラディカルに説くならば、結果的にそういうことになるしかないということだけはたしかである。来世などという観念自体、本当は無用と観ぜられるべきものだ。仏教は輪廻転生を説くとよく言われるが、輪廻転生とはいまだ煩悩を捨て切れない魂が迷いつづけている状態であって、寂滅涅槃の境地からみれば、速やかに離脱すべき否定的な状態以外の何者でもない。

> この徹底性は、実を言えば、日本の伝統的な信仰のあり方に必ずしも適合するわけではない。先に加地伸行が説いていたように、日本(あるいは東北アジア)では、儒教的な祖霊信仰が一般的で、そこでは魂の常住がむしろ信じられてきたからだ。しかしそれはプラトニズムやキリスト教のような形而上的な一般化を経たものではなく、もっと肉感的で、具体的なたたずまいを備えている。それは、たえずその辺をさまよっており、特定の人が呼べばいつでもその特定の人のもとに帰ってくる、名前のある魂である。

> すべての絆を断ち切ることを説く仏教的死生観は、本当は、伝統的な日本人の意識には合っていないのではないかと思う。

> だがおそらくすべての外来宗教が日本人の伝統的な意識に触れて妥協と変質を余儀なくされたように、仏教的死生観もあいまい化を免れず、その本来の主張どおりに定着・浸透することはありえなかったのだ。

> もっとも、ひょっとすると、都市社会的な個人主義が発達し、係累の価値が希薄化した現代の日本においてこそ、かえってそれは大きな共感をあたえる要素をもっているいるのかもしれない。余談になるが、仏教の原点に帰ることを説いていたオウム真理教が現代の多くのラディカルな若者の心をとらえたのも、そうした時代的要因が絡んでいるのではなかろうかと思う。

> しかし、それが人間の魂に共感を及ぼす範囲もまた、生の意識全体のなかでは、局部的なところにかぎられるというほかはないであろう。なぜならば、実際人々は、ことさらこの世のすべてが不浄に満ちたものだなどと考える必要性を感ずることなく、幸と不幸、安らかさと不安の間を往復しつつ、そこそこ平気な顔をして生きていることが圧倒的に多いからである。

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