「日本英語は漢文のお化け? - 高島俊男」

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「日本英語は漢文のお化け? - 高島俊男

五年前からやっていた新聞の書評をこの三月でやめた。その最後にとりあげたのが、伊村元道『パーマーと日本の英語教育』(大修館書店)、これはおもしろい本であった。
パーマーはイギリスの言語学者である。文部省に招かれて来日し、大正末から昭和にかけて英語教育を指導した。日本の英語教育、特に一部の英語教員に強い影響を与えたが、しかし結局は「日本英語」に敗れて去った。パーマーがついに抜くことのできなかった牙城は「英文和訳」であった。
パーマーが日本に植えつけようとしたのは、英語を英語のままに受けとり、理解するやりかたである。言いかえれば、日本語を通さないやりかたである。当然、耳と口との訓練が主になる。聴覚重視である。そして応答するにも、はじめから英語で発想することが求められる。
言うまでもなくこれは、日本人が英語を学ぶばあいにかぎらず、およそ外国語を身につけようとする際の王道である。パーマーは何も、日本人に珍奇な方式を押しつけようとしたわけではない。
しかるに英文和訳とは、英語を英語のままではなく、これを日本語になおした上で受け入れ、納得する方式である。それも、英語の文章を目で見て、これを日本語になおして理解するのである。視覚英語である。これでは到底、英語ができるようにはならない。
パーマーは日本に十四年いる間に、ずいぶん最初の理想を後退させ、妥協している。しかし英文和訳は最後まで認めるわけにはゆかなかった。来日十二年目の昭和九年にこう書いている。
「外国語学習の場合に於ける翻訳はその外国語の習得状態を検査する為の簡便なる一手段とはなり得るも、之を学習する為の手段又は学習の方法としては単に補助的なる用をなすに過ぎず。」
パーマーが拒否した「英文和訳」とは何か。
それは、英語における漢文である。
この本を読みながらわたしは常に、漢文の黒々とした影が、悪魔のように日本英語の背に爪を立てているのが見えるような気がした。

漢文とは、外国人が外国語で書いた文章を、文字からいきなり日本語につなぐシステムである。
もともとの漢文、日本人が手にとる以前のそれは、支那人支那のコトバで書いたものなのだが、そのコトバをとばしてしまうのである。
日本における初期の英語はまったく漢文であった、とは人のよく言うところである。この本にも、澤柳政太郎の『我国の教育』(明治四十三年)の一節が引用されている。
「第一期に於ける英語教授法は(・・・・・)恰も日本人の従来読み慣れたる漢文を理解すると同一筆法を用ひ、一字一語につき訳述し、☆に現今に至るまで英語教授法の障☆を為せる所謂直訳法なるものを生じた。故に此の時期に於ける英語教授法は、全然目から入つた語学で耳は更に其の用を為さなかつた。」
あの、アメリカ生活の長い中浜万次郎の作った英語教科書ですら、返り点がついている。
もちろん英語のばあいは、漢文とちがって一応は英語で読む。しかしそれは、単なる儀式、オマジナイにすぎない。timeをチメとよみをつけた教科書さえあったそうだが、オマジナイだからそれでもよいのである。ジョン万の作った教科書でも、How many letters are there in English?が「ハヲ メニ ラタシ アー ザヤ イン エンゲレス」程度で、ジョン万その人に習うのでないかぎり、このカタカナをそのままよむのだから物の役に立つはずがない。それでもかまわないので、だいじなのは返り点に従った和訳なのだ。
下から上へまっすぐあがるのを「ヒバリ読み」、行ったり来たりするのを「千鳥がけ」と言ったそうだ。たとえばI go to school everydayなら最初の「我」以外は「毎日 学校 へ 行く」」と下から上へ一直線だからヒバリである。千鳥はもっと複雑なやつ。
外国語の文字を直接日本語になおして、日本語の順番で読んで、少々原意とズレたって、とにかく日本語で理解してしまう漢文方式は、ガッチリ日本人の外国語受容に食いこみ、それを英語に適用したのが英文和訳だった。これが日本人には最もシックリ来た。しかものちには、入学試験という強いうしろだてがついた。パーマーはこの堅壁にはね返されたのである。

漢文はばかばかしい。英文和訳もばかげている。こんなやりかたで外国語ができるようになるはずがない。
そう笑ってすませられれば話は簡単なのだが、ここに困ったことがある。このやりかたが、日本人の頭をきたえたのである。
異質の生活をし、異質の思考法を持つ異民族が考えたことを、多少イビツになろうと何だろうと全部日本語にして、とにかくわかったことにしてしまう、この強引なやりかたが、日本人の頭脳を強靭にした。その頭脳で日本人は幕末明治を受けとめ、乗り切った。漢文のあとは英文和訳がひきうけた。外国語学習法としてはダメだが、頭脳トレーニングには最適、という一面はたしかにあるのだ。
わたしは長く中国語と中国文学の教師をしていた者だが、学生の頭脳の強靭さを見るには、アメリカの学者が書いた中国文学関係の論文のむずかしいやつを訳させてみるのが一番であった。頭の強いやつは、関係詞の所を赤線で囲ったりそれを青線で上へひっぱったり苦心惨憺して、とにかくわかってしまう。頭の弱いやつはお手あげである。
だからわたしは、英語を入学試験の課目に使うのは不賛成だが、しかしこれが受験生の資質を試すのに最も手っとり早い確かな方法だということは認める。
右にしきりに「頭脳の強靭さ」というのは、頭のよさとはちょっとちがうからである。わからないものをゴリ押しにわかってしまうクソ力みたいなものである。
中国語・中国文学をやるには漢文は絶対有害だが、日本の歴史、文化を理解するには、これが不可缺である。
同様に、遠い将来、近代の日本を理解するには英文和訳の研究が必要、ということになるのではないかと、わたしは思っている。

あとからひとこと-
右の文を読んだ二三の人から「やっぱり漢文をやらないといけないのですね」と言われたのにはガックリ来た。「漢文の黒々とした影が悪魔のように」と言い、「外国語学習法としてはダメ」と言い、「絶対有害」と言っているではござんせんか。
漢文や英文和訳というのは、複雑難解なクイズ、あるいはゲームみたいなものである。それが日本人の頭脳をきたえたのは、いわばケガの功名みたいなものである。それらの本来の目的であったはずの、外国のことばを学び、それをつうじてわれわれとはことなる文化を知るための方法としては、まったくダメだともうしているのである。ただし、日本人はそれをやり、そうやって日本の文化を作って来たのだから、日本の文化を知るためには、それらを知らねばならない、と言っているのであります。
以前に、ロベルトというアルゼンチン人に漢文を教えたはなしをした。ロベルトが日本文化研究をこころざす者だからである。中国文化を知ろうとする人が「漢文を教えてください」などとぬかして来たら、「ツラを洗って出なおしてこい」と罵倒するにきまっております。