「「水曜日は狐の書評」の書評抜書 其の二 - 〈狐〉こと山村修」水曜日は狐の書評ちくま文庫から

 

「「水曜日は狐の書評」の書評抜書 其の二 - 〈狐〉こと山村修」水曜日は狐の書評ちくま文庫から

④記憶力抜群、ユーモアあふれる語りの芸
内藤鳴雪著『鳴雪自叙伝』(岩波文庫)

午睡さめて尻に夕日の暑さかな 鳴雪
正岡子規のまわりには、どうしてかくも一筋縄ではゆかぬ人間ばかりが集まっていたのだろう。親友の夏目漱石はいうに及ばず、盟友だった高浜虚子もしかり、河東碧梧桐もしかり。そしてこの内藤鳴雪という、ガンコなような酒脱なような、いっぷう変わったキャラクターの持ち主も、子規とは深いかかわりがあった。
内藤鳴雪は一八四七(弘化四)年生まれ、一九二六(大正十五)年没。子規派の重鎮と目された俳人だが、子規との出会い方がめずらしい。鳴雪が舎監をつとめる寄宿舎に、子規が舎生として入ってきた。寄宿舎とは、旧松山藩の子弟たちのため、本郷に設けられた常磐会寄宿舎のこと。鳴雪も子規も松山の人だった。
鳴雪のほうが子規より二十歳も年長である。しかも舎監だから、舎生の子規を監督する立場だ。それが子規の弟子格となって俳句を学び、ついにはプロの俳人となるに至った。才能もあったが、おおらかな人柄だったのだろう。子規も「鳴雪の翁」と呼んで慕った。
その鳴雪の自叙伝が出ている。記憶力抜群、なおかつ生来のユーモリストである鳴雪の語り口がつくづくとおもしろい。なにしろ開巻まもなく、「私は悪い癖があった。それは寝ていて糞をたれることで、このため時々夜半に祖母達が大騒ぎをした。その糞騒ぎの真最中に泥棒が這入ったことがあった」などという。とてつもない話があって、これがエリートによる行儀の良い自伝文学ではないことがすぐ分かる。
時代は、幕末から維新を経て明治の新社会を迎えるという天地も揺らいだころである。松山藩江戸藩邸に生まれた鳴雪が、好奇心いっぱいで書きとめる江戸市中の見聞や、藩士たちの私生活のディテールなどが精彩に富む。
鳴雪は俳号、何事も「成り行き」に任せるという意味でつけたという。

 

⑤ありふれた市井の暮らしが目に焼きつく
矢田津世子著『神楽坂・茶粥の記』(講談社文芸文庫)

矢田津世子、明治四十年生まれ、昭和十九年没。残された写真をみると、目元のあざやかな美女である。かの坂口安吾が死ぬほど恋いこがれた。矢田もまた、安吾を狂おしく愛した。知り合って五年、互いの思いはついにかなわず、たった一度、接吻をしただけで別れた。その接吻を交わしたのが昭和十一年二月二十六日、すなわち二・二六事件の当日であった-というのが矢田津世子伝説のあらましである。
二・二六事件うんぬんはどうでもよい偶然として、派手やかな恋愛事件に彩られた人ではあった。しかしその小説作品のたたずまいはいかにも静かであり、地味であり、つつましやかである。昭和十年代の、当時としてはありふれた市井の人々の暮らしようが、その幸・不幸のありさまが、醒めた目でそっとすくいあげられている。
短編小説を集めた本書表題作の一つ「神楽坂」(昭和十一年)は芥川賞の候補ともなり、矢田の小説のなかではもっとも知られた作だが、人々の身ぶりのこまやかな描出は、あたかも映画を見るかのようだ。
たとえば「爺さん」が妾宅に出かけた夜のこと。その妾のことではさんざん思い悩みながらも、口をはさまずに耐えている「内儀さん」が針仕事をしている。障子の裏を毛虫が一匹、はいのぼっていく。針仕事をふと打ち忘れ、内儀さんの目はその毛虫に吸い寄せられている。毛虫がカサカサと音を立てる。内儀さんは瞳を凝らす。
毛虫が障子の桟を越す。内儀さんの手がのびる。手の先の針が、毛虫を突き刺す。毛虫は激しくうねり、反りかえる。
静かで、地味で、つつましやかなたたずまいだが、その内実は、ときとしてこのように鋭く、悲しく切実に燃えあがる。ありふれているはずの市井の暮らしのさまが、このディテールによって目に焼きつく。矢田津世子、初の文庫化。

 

⑥手酌で飲むのはなぜバツが悪いのか
柳田国男著『木綿以前のこと』(岩波文庫)

十九編のエッセーを収める柳田国男の代表的な著作の一つ。岩波文庫版は長いこと見かけることがなかったが、このたび重版された。
柳田国男の文章を読んでいると、しばしば日本人の心の古層みたいなものを、体感的に知らされるような気がする。かつて吉本隆明が、柳田国男の文体には「既視現象にであった気分にさそわれる」と書いたことがあった。「あっ、この感じはいつしかあったとおもうのだが、かたちがあたえられないうちに、その瞬間が通り過ぎてしまう」と。
吉本隆明のいう「あっ、この感じ......」という微妙な刺激を与えてくれるのが、この民俗学者の本を読んで一番おもしろいことだ。とくに酒好きは、本書の収める一文「酒の飲みようの変遷」など、随所で「あっ、この感じ.....」と思わせられるだろう。たとえばわれわれが宴席で、手酌で飲もうとするとき、何となくバツが悪いような、後ろめたいような気がしないだろうか。周囲の者も、気がつくとすぐに注いでやろうと手を出す。あれは何なのか。
柳田国男によれば、昔は必ず酒は集まって飲むもの(「集飲」という)であった。けっして一人で飲むものではなかった。
「手酌で一人ちびりちびりなどということは、あの時代の者には考えられぬことであったのみならず、今でも久しぶりに人の顔を見ると酒を思い、また初対面のお近づきというと飲ませずにはおられぬのは、ともに無意識なる昔風の継続があった」
こういう一節を読むと、手酌で飲むときの落ち着きなさに、動かしがたい根拠が与えられる。酒は集飲に決まっていて、独酌などは想像もできないことであった。つまり、あの落ち着きなさは、はるばるとした昔(近世以前)の日本人の心的な古層に触れて感じるものなのだ。
「あっ、この感じ......」。先ず体感がくる。知識はむしろ、そのあとからついてくる。柳田国男の本はそのようなものであると思う。