(巻三十三)ポケットに猫を飼ひたし修司の忌(遠藤若狭男)

(巻三十三)ポケットに猫を飼ひたし修司の忌(遠藤若狭男)

5月11日水曜日

洗濯をしてから、クリーニング屋へ引き取りに行く。戻って昼飯の温めをする。これで11時になった。

明日はリハビリ病院で検診なので今日の午後は少し遠くまで歩くことにした。

URのフーッ子不在、都住1のチカちゃん不在、鼻黒が階段にチョコンと座っていた。鼻黒も純野良ではないようだ。声をかけたら気がついて階段をピョコピョコと降りてそばにきた。一袋献呈。そこから曳舟川を上り、途中右に折れて亀有銀座歩き、串焼き本舗に入る。今日はタンとレバにしてみた(塩で2本ずつ)。兄ちゃんはまだ覚えてくれていたようで、黙っていても味噌を出してくれた。これにホッピーセット中一回お代わりで勘定は1078円と以前と変わらず。

駅前でHome Town Cartoon Heroを一撮してバスに乗り、都住2のバス停で降りた。猫の溜まり場のベンチへと歩いていくと婆さんが一人腰掛けていて、顔を見るなり「猫ちゃんたち、どこかいっちゃっていないのよ。ご飯なのに。」と話しかけてきた。猫のファングラブ会員として既に認知されているようだ。そんなところへ飼い主の婆さんが食器と食事を携えて2階から降りてきた。時は3時である。すると花子(本名はチーちゃん)と太郎(本名はフーちゃん)が裏手から現れた。婆さんたちの話を聞くに、この猫たちは相当厚遇されているようだ。缶詰を開けてもらっていたが、別段ガツガツと食うわけでもない。花子などはしばらく口をつけずにながめている。婆さんによれば、「今日のはマグロじゃないから、怒ってるのよ。」だそうだ。都住1のチカちゃんや鼻黒は猫らしい敏捷な動きをするが、花子にいたっては小走りするのも難儀のようだ。猫の食事に付き合ってもしかたがないので、おいとますると「いつも可愛がって下さってありがとうね。」と言われた。いつも見られているのかもしれない。 

今日は

「橋本克彦『線路工手の歌が聞えた』(文春文庫)の解説 - 宮脇俊三」乗る旅・読む旅から

を読んだ。文庫巻末の解説で、

《しかるに、線路保守の重要さについての人びとの理解は乏しい。ひとつには、二本の鉄の例にというがっしりした構造物が、恒久性というか不滅というか、そうした印象をあたれるからであろう。だからこそ、人は揺れの原因が線路にあるとは思わないのではないか。

それがとんでもない誤りであり、線路は、列車が通るたびに歪み、沈み、磨耗し、荒廃していくものであることを、本書の読者は十分に理解したであろうが、明治いらい、躍起になって鉄道を敷いてきた人たちは、そのことに無理解であった。国情であったかもしれない。

保守に手間のかからない、しっかりした線路を築こうとすれば金がかかる、一〇キロしか鉄道が敷けない、安普請でやれば二〇キロ敷けるという場合、どちらを選ぶのが得策か。「我田引鉄」によって代議士が票を得た時代の選択は明らかであった。とにかく線路を敷きさえすればよい、という考えが優先した。》

など、解説されていて本書を読みたくなり図書館ネットで検索したが、葛飾区の図書館では残念ながら所蔵していなかった。

文庫本の著者と解説者の取り合わせと云うのも面白い。

福翁自伝』に小泉信三とくれば「ごもっとも!」

https://nprtheeconomistworld.hatenablog.com/entry/37613125

だが、

色川武大の雑文集に解説者西部邁となると「何で!どうして?」となる。

https://nprtheeconomistworld.hatenablog.com/entry/2020/01/26/083440

願い事-生死直結で知らないうちに幕にしてください。もうい~よ、“幕!”。